初の国産旅客機「YS-11」は、どう生まれたか 日本のものづくりは戦前からつながっている
今、国産の旅客機が世間をにぎわせています。
先日、初飛行を行った国産旅客機「MRJ」。日本航空業界の悲願とも言われたこの機体は、幾度の困難を経てようやく空へ飛び立ちました。
「MRJ」は最初に発注したANAから運航を開始し、その後、大半はアメリカでの運航が予定されています。最近では、JALも発注しています。
そんな「MRJ」には、前身となる飛行機が存在します。戦後初の国産旅客機「YS-11」。戦後間もない時期から製作が開始され、初飛行の1962年から現在まで50年以上も日本の空を飛び続けています。
飛行機の製造を禁じられた戦後日本が、初の国産旅客機「YS−11」を作り出し、「MRJ」といった次世代の旅客機を作り上げるまでのストーリーを、東京大学大学院工学系研究科の鈴木真二先生に伺いました。
飛行機の製造をすべて禁じられた戦後日本
――戦時中に零戦や隼といった飛行機を作り出していた日本。戦後には飛行機の製造が一切禁止されたと聞いています。
敗戦国となった日本は、戦後GHQによって飛行機の製造・運用を禁じられます。また、それだけでなく、飛行機の研究や教育などを行うことも禁止されました。戦後の日本は、飛行機に関しては作る・飛ばすことにかかわるすべてを禁じられてしまった状況だったのです。
――飛行や製造だけでなく、研究や教育も禁止されてしまったのですね。
戦時中の日本は「零戦」を初めとした非常に技術力の高い飛行機を作る能力を持ち合わせていました。その結果、戦後は製造部門だけでなく、教育や研究を行う機関も徹底的に閉鎖されてしまったのです。
――そのような状況の中、航空の製造や研究にかかわっていた人々は、終戦直後はどのような分野において活躍されたのでしょうか。
戦時中飛行機製造の中心にいた人物は戦後自動車や鉄道を製造する分野で活躍していました。たとえば、キ94という戦闘機の設計主任を務めていた長谷川龍雄氏は終戦後トヨタに入社。パブリカやカローラといった大衆車の初代モデルの開発主任を務めることになります。