初の国産旅客機「YS-11」は、どう生まれたか 日本のものづくりは戦前からつながっている
――ちなみに、「YS-11」の開発にあたっては、飛行機を作れなかった7年間のブランクがどう影響したのでしょうか。
機体構造自体は戦前から戦後で大きく変わった部分があったわけではありません。しかし、終戦直後にジェットエンジンの普及が始まり、飛行機に積まれる電子機器の高性能化など、大きな進化がありました。そして日本は、戦前、戦中の航空機産業は主体が軍用機でしたので、民間用の旅客機を作った経験がほとんどありませんでした。
そのような背景もあり、「YS-11」は開発の初期段階において、さまざまな困難に見舞われました。一例として、機体が「雨漏りをしていた」という話があります。開発はほとんどが雨に濡れないハンガーで行われたため、実際に使用しだすと雨漏りが起きたのです。戦闘機の作り方しか知らなかった技術者達は、「飛行中の快適な空間」を作り出すのに慣れていなかったのです。
――なるほど、高度な戦闘機を作りあげたプロ達も、旅客機を作るには非常に苦労したのですね。
一方で、そんな技術者たちが持つノウハウも非常に生きた部分がありました。「YS-11」は当初、飛行中の安定性に大きな問題を抱えていました。設計変更が必要かといわれた時期に、翼の取り付け部にくさびを取り付けることを提案したのが、戦時中に川崎航空機にて飛燕を設計した土井武夫氏です。
このように戦時中のノウハウも組み込まれ、開発されたのが「YS-11」だったのです。
「YS-11」から「MRJ」に受け継がれた「日本の翼」

ロールアウト直後の「MRJ」(鈴木真二先生ご提供)
――1962年に初飛行した「YS-11」。2015年現在でも、海上保安庁などでも使用され続け、50年近く日本の空を飛び続けていることになります。
「YS-11」は80年代には引退するだろうと言われていたのですが、国内の航空会社では2006年まで、自衛隊では2015年現在でも飛び続けています。実際のところ90年代までは日本の地域航空は、「YS-11」の独占場だったのです。