「つられ笑い」できない人に迫る、精神の危機 心と体から「ゆとり」が失われていないか

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なぜなら、人間というのは基本的に、周囲の人間が大爆笑していればつられて笑い、号泣していればもらい泣きし、怒号がうずまいていればだんだんとアドレナリンが出て興奮してくるというような、周囲との同調性を強くそなえた生き物だからです。このことは、もともと、集団生活を営んできた生き物であることを考えれば、当然のことですね。

そう考えると、「面白いから笑う」のではなく「誰か(仲間が)笑っているから笑う」というほうが、実は「笑い」の王道なのかもしれない。そんなふうにも思うんです。

実際、よそ見をしている間にみんながドッと笑った。その瞬間、「え? 今みんななんで笑ってるの?」と思いながらも、自然と顔がほころんでいた。小学校の頃などは、そういう経験をしたことのある人は少なくないはずです。

ところが大人になるとだんだんと、そうした「つられ笑い」をしなくなる人というのが増えてきます。特に男性にその傾向が顕著なようにも感じるのですが、そういう人は「自分自身が心の底から面白いと思ったわけじゃないのに、つられて思わず笑ってしまう」というつられ笑いは「よくないもの」と考えている節もあるようです。

体と心が重くなっていませんか?

もちろん、周囲の人がなんと言おうと変わらない信念のようなものはあってもよいでしょう。誰かを軽んじたり、バカにするような笑いを否定する意味で、意識的に「ムスッ」としているなら、それはそれでいい。

でも、そういった明確な意図もないのに、周囲の人の笑いにまったくなびかないのは、ちょっと体と心が「重く」なってきている「要注意サイン」かもしれない。そう感じています。

イソップ童話に『樫の木と葦』というお話があります。こんなお話です。

細い葦が生いしげる小川の近くに、巨大な樫の木があった。
風が吹いても、大きな樫の木はびくともしなかったけれど、
葦は風になびいて、頭を垂れていた。
樫の木は、そんな葦をみて哀れんでいたけれど、
葦のほうは気にもしていなかった。
しかしあるとき、大きな台風がやってきて、
あたり一帯がものすごい暴風雨にさらされた。
葦がいつもどおり、頭を垂れて嵐が過ぎ去るのを待っていると、
風に対して踏ん張っていた樫の木が、
根元からバリバリと音を立てて倒れてしまった。

 

僕は幼い頃、この話が大好きで、母親に何度も繰り返し読んでもらっては、樫の木が折れるところで大喜びしていたらしいのですが(変な子供ですね)、このお話は「かたくなで頑固な心」と「しなやかで柔軟な心」の対比として読むことも可能だと思います。

「風が吹いてもぴくりとしもないようなかたくな心」は、一見何にも揺るぎなく、強いように見えるけれど、いざというときに「ポキり」と折れてしまうもろさを抱えている。

「つられ笑い」が起きない体や心からは、「葦」のようなしなやかさが失われ、樫の木のようにかたく、凝り固まりつつある印象を受けます。

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