──日中関係が凍り付いたままでいる状態の片棒を、実は日本のメディアも担いでいる?
そうです。たとえばわれわれの作文コンクールの表彰式の様子も、某新聞の特派員は、取材しても本社が取り上げない、と言ってました。ライバル紙が後援しているという事情もあるようですが、他社後援うんぬんにかかわらず、中国各地でこんなに熱意を持って日本語習得に頑張ってる若者たちを、もっと応援すべきじゃないかと思います。彼らが日中の将来の懸け橋になるのですから。
彼らの生の声に触れず、大手メディアの情報だけで中国を悪くイメージしてしまうのはすごく残念です。
若者たちに日本を経験するチャンスを提供したい
──段さんは33歳で来日するまで、新聞記者だったんですよね。
中国共産主義青年団の機関紙「中国青年報」で記者をしていました。1989年の天安門事件には、ジャーナリストとして失望しました。当時は毎晩2時の朝刊締め切り後、天安門広場へ通った。私は党員だったけれど学生と一緒にデモに参加しました。共産党中枢の新聞記者でさえ、あれはないと思った。われわれが現場で見て書いた記事を載せるよう編集長に詰め寄ったし、本来なら5時に印刷へ回すのに、紙面構成もゲラも出さないこともあった。活字工は10分で組むところを1時間もかける牛歩戦術で発行をやめさせようとしたり、現場はけっこう頑張ったよ。
2年後、たまたま妻が留学していた日本へやってきました。中枢紙の1面デスクで出世コースにいたところから、まったくゼロの状態で何も知らない日本に来るのは非常に複雑な心境でした。でも幸運だった。日本というすばらしい国を自分は身をもって体験することができたのです。何より尊いのは言論の自由、出版の自由です。これは私の命より大事です。
もう一つ、普通の市民がどこの誰とも知れない一外国人にたいへん優しくしてくれたこと。アルバイト先の居酒屋の老夫婦が暇を見て日本語を教えてくれ、年末にはおせち料理を分けてくれ、まさに日本の文化、日本人の優しさでいつも助けてくれた。日本に来て本当によかったと感じてるんですね。そのためにこの日本語作文コンクールも死ぬまで続けていきたいし、若者たちに日本を経験するチャンスを提供したい。
──13億人のエリートの階段から今のこの仕事まで、段さんにとっては自然な帰結だったんですね。
こんな小さな民間企業でコンクールをやるには力不足であると感じています。それでもなぜやってきたか、何が得られるかといえば、若者たちを応援することで、私には時間が足りなかった日中を強固につなぐという夢を、彼らに託せるからです。
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