叩く、縛る、巻くといったほうき作りの工程は意外とハードだそう。現在、40代~80代の職人がたった4人で制作を行っているので、注文が殺到した際の疲労は深刻だ。疲労は品質低下にも繋がりかねないが、5~6年は修行が必要なので急な要員増もできない。しかし、「河内社長は、こうした作る側のコンディションに合わせてくれる」と、土田代表は話す。
職人の状態を始め、原料の調達具合や別商品の繁忙期も考慮し、無理な供給増は行わないよう配慮があるという。無理を重ね需要に応えたとしても、万が一品質を損なったり職人が倒れてしまっては、消費者を裏切るだけでなく、ほうきを次世代に引き継ぐことも難しくなってしまう。文化継承のためにも、土田代表は、高品質なほうきを継続的に提供することを大切にしている。
「手廻しせねば、雨が降る」
昭和30年代頃まで主流の掃除用具はほうきだったが、掃除機や化学繊維の普及、100円均一ショップなどの登場で需要が減り、職人も激減した。現在、棕櫚箒の作り手に関しては、同店を含め2社。実は、同店も昭和50年頃には一度生産をやめている。こうした背景の中、ほうき制作を復活させたのが、土田代表だ。
土田代表は、先代三女の夫にあたるが、2006年に先代が他界した際、転機が訪れる。三姉妹が事業継承し、4代目の経営は土田代表が担うことになったのだ。「経営を継げる状況にあるのが自分だけだった」と、土田代表は言う。
一念発起し、20年以上に渡り人事や社長秘書を務めた大手電機メーカーを退職。45歳だった。「やるからには、何かに特化し、誰もやっていないことをやらなければ」。そんな思いで在庫を確認しているときに見つけたのが、棕櫚箒だった。「面白い! コレだ!」と直感し、職人をなんとか一人見つけ出して、ほうき制作をスタートさせた。
今、ほうき事業は順調だが、土田代表はしきりに「取引先はもちろん家庭用品組合にも助けられてきた」「姉2人のおかげ」と周囲への感謝を言葉にし、創業者への尊敬の念を忘れない。創業者・山本勝之助は、かなり個性的な人物だったそう。いち早く棕櫚に目をつけ、現金取引が主流の時代に「気に入ったら注文して」と棕櫚縄の試供販売を行ったり、成功の秘訣を記したオリジナルのビラを20万部配って歩くなど多くの逸話が残っている。
そんな勝之助が事業拡大に成功する中で大切にしていた経営理念が、「手廻しせねば雨が降る」だ。これは、常に不測の事態を意識した段取りを心がけ、迷惑と不信を招かぬよう心すること、という商業道徳を表している。今もこの言葉は常に同店の礎となっているそうで、「みな、『手廻し、手廻し』と言いながら仕事をしていますよ」と土田代表は笑う。
最近、手廻しがうまくいかず落ち込む日も多々ある筆者だが、ほうきのサッサッサッという音と黙々と掃くひとときは、なぜかそんな波立つ心をちょっと鎮めてくれる効果もある気がする。
ほうき生活に興味のある人は、せっかくなのでライフスタイルに合ったものを見つけてほしい。同店でも30種類以上あるが、ほうきにはそれぞれ特徴や歴史があるので、全国のほうきをいろいろと知り比較するのもまた楽しいと思う。
(撮影:尾形文繁)
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