意外と人間臭い理由で密告してきた勝家だったが、信長はその情報を信じて、相手を罠にかけることにした。病気のふりをして外に出ないようにし、信勝をおびき寄せようと考えたのである。
信長が何らかのかたちで仕向けたのだろう。信勝は母と柴田勝家からこうすすめられた。
「御兄弟の間なのですから、お見舞いに行ったほうがよいでしょう」
秘密裏に進めている挙兵計画を悟られないためにも、自然な振る舞いをしようとした信勝。言われたとおりに清洲城へと向かったのが、運の尽きだった。
信長はお見舞いにやってきた弟を、家臣に命じて殺害。『信長公記』では、このときの忠節があったがために、のちに勝家は越前という大国を信長から与えられた、としている。
信長に20年以上仕えた「豊臣兄弟」
そんな信長のもとに、秀吉が仕えたのは、天文23(1554)年のことだ。信長が清洲城を手に入れた頃であり、弟との確執もまた、伝え聞いていたことだろう。
そして、秀吉が自身の弟である秀長をスカウトした時期ははっきりしていないが、「桶狭間の戦い」後、永禄5(1562)年頃だろう。秀吉が足軽組頭に出世したのちに、信頼できる家臣が必要になったのだと思われる。
秀長からすれば、信長がどれほどの人物なのかは測りかねながら、兄の粘り強い説得に応じたのだろうが、尾張統一への険しい道のりを知っている秀吉は、信長こそ天下人たらんと、すでに確信を持っていたに違いない。
信長が天正10(1582)年6月2日に「本能寺の変」で倒れるまで、実年齢で秀吉は17歳から45歳までの約28年、秀長は22歳から42歳まで約20年、信長のもとで仕えたことになる。
その間、「豊臣兄弟」の絆を見てきた信長。2人の姿に、弟の信勝との違った未来を想像することもあったのだろうか。
【参考文献】
杉山博編『多聞院日記索引』(角川書店)
竹内理三編『史料大成多聞院日記〈全5巻〉』(臨川書店)
太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
河内将芳著『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(戎光祥出版)
柴裕之編『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究』(戎光祥出版)
新人物往来社編『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社)
真山知幸著『企業として見た戦国大名』(彩図社)
真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)
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