もともと尾張国を治めていたのは守護の斯波氏だったが勢いを失い、守護代・織田家が台頭。上四郡を織田伊勢守家が、下四郡を織田大和守家が治めた。織田大和守家のほうに仕える代官の織田弾正忠家から誕生したのが、信長である。
天文21(1552)年3月に父・信秀の死去にともない、19歳で家督を継いでからというもの、信長に気が休まる時は少しもなかったと言ってよいだろう。約2カ月後には、父・信秀の重臣である山口教継(のりつぐ)が今川方について、若き信長にさっそく反旗を翻した。
この「赤塚の戦い」に引き分けたかと思えば、それから4カ月後には清洲織田家の有力者・坂井大膳が挙兵し、織田信長に襲いかかった。この「萱津(かやづ)の戦」では、信長は叔父の織田信光の助力を得て、勝利を収めた。
ちなみに、前田利家はこの戦いが初陣であり、真っ先に敵陣に突入した。早くも勇猛ぶりを発揮している。武功を立てて、信長に認められた(記事「信長が激怒! 大河「豊臣兄弟!」出禁食らった前田利家の大失態」参照)。
その後、坂井大膳の主君・織田信友を計略にはめて、信長は清洲城を手に入れると、那古野城、守山城も掌中にした。
そうして下四郡の平定を着々と進めた信長。尾張統一を成し遂げるべく、上四郡を支配する織田伊勢守家と対決するだけ……と思いきや、ごく身近に不安材料を抱えていた。
それが弟の信勝である。一般には「信行」の名で知られる、信長の弟だ。
兄の信長に反旗を翻した信勝の運命は?
信長といえば、青年時代にその振る舞いから「うつけ」と呼ばれていたことで知られている。
父・信秀の葬儀での出来事だ。信長は仏前に進むと、いきなり抹香をわしづかみにし、仏前めがけて投げつけたという(「仏前へ御出有て抹香をくはつと御つかみ候て仏前へ投懸御帰」『信長公記』より)。
参列した織田家の親族や家中の者たちが呆気にとられたことはいうまでもない。よく知られている逸話だが、こんな続きもある。
「御舎弟勘十郎は折目高成肩灰袴めし候て有へき如くの御沙汰也」( 弟信行は折り目正しい肩衣・袴を着用し、礼にかなった作法だった)


















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