信長の弟・信勝こそが、次期リーダーにふさわしいのではないか。そう考えた信勝側の家臣も少なからずいたようだ。その筆頭が柴田勝家である。
信長が清洲を奪ってから約2年が経った弘治2(1556)年、勝家は信長の宿老・林秀貞とその弟・美作守を味方につけると、信長を排除して信勝を擁立しようともくろんだ。
信長は隣国の斎藤道三の娘・濃姫を正室として娶って同盟関係にあったが、同年5月に道三が子の斎藤義龍(よしたつ)と敵対。「長良川(ながらがわ)の戦い」が起きると、道三は敗北して命を落とす。信長と対立した義龍は、岩倉城を本拠とする上四郡の守護代・織田信賢(のぶかた)と手を組んだ。
道三という後ろ盾を失った今の信長ならば、恐るるに足らず。そう考えたのだろう。
勝家は林兄弟とともに、信長の直轄領である篠木三郷を奪って、砦を築いて挑発。対する信長は名越に砦を築いて佐久間信盛を入れると、自ら清洲から打って出た。両者の軍勢が稲生で激突したことから「稲生の戦い」とのちに呼ばれた。
その結果、信長は美作らを討ち取り、柴田勝家は敗走。信勝サイドの敗北となった。信勝が末森城に籠城すると、信長は攻寄ったが、結局は弟を許している。
その背景には、信長と信勝の生母である土田御前のとりなしがあったという。このときに、勝家や秀貞も赦免されている。
仮病を用いてお見舞いに来た弟を討った
だが、そんな信長の温情もむなしく、翌年に信勝は今度こそ兄の信長を討とうと挙兵計画を立てる。ところが、この謀反を防ぐべく動いた男がいた。柴田勝家である。
勝家といえば、のちに「鬼柴田」と恐れられた豪傑武者だ。不器用で情に厚いというイメージも強い。織田家の行く末を熟慮してかと思いきや、勝家の個人的な事情もあったようだ。
『信長公記』によると、信勝は評判の良い家臣をみな津々木蔵人(つづき くらんど)という男につけた。津々木は、信勝の男色の相手であり、特別扱いされていたようだ。得意満面の津々木にないがしろにされたため、勝家は無念に思ったということらしい。


















無料会員登録はこちら
ログインはこちら