兄の信長に反旗を翻した信勝の運命 「豊臣兄弟」が仕えた織田信長が「弟殺し」で使った作戦とは

✎ 1〜 ✎ 4 ✎ 5 ✎ 6 ✎ 7
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

信長の弟・信勝こそが、次期リーダーにふさわしいのではないか。そう考えた信勝側の家臣も少なからずいたようだ。その筆頭が柴田勝家である。

信長が清洲を奪ってから約2年が経った弘治2(1556)年、勝家は信長の宿老・林秀貞とその弟・美作守を味方につけると、信長を排除して信勝を擁立しようともくろんだ。

信長は隣国の斎藤道三の娘・濃姫を正室として娶って同盟関係にあったが、同年5月に道三が子の斎藤義龍(よしたつ)と敵対。「長良川(ながらがわ)の戦い」が起きると、道三は敗北して命を落とす。信長と対立した義龍は、岩倉城を本拠とする上四郡の守護代・織田信賢(のぶかた)と手を組んだ。

道三という後ろ盾を失った今の信長ならば、恐るるに足らず。そう考えたのだろう。

勝家は林兄弟とともに、信長の直轄領である篠木三郷を奪って、砦を築いて挑発。対する信長は名越に砦を築いて佐久間信盛を入れると、自ら清洲から打って出た。両者の軍勢が稲生で激突したことから「稲生の戦い」とのちに呼ばれた。

その結果、信長は美作らを討ち取り、柴田勝家は敗走。信勝サイドの敗北となった。信勝が末森城に籠城すると、信長は攻寄ったが、結局は弟を許している。

その背景には、信長と信勝の生母である土田御前のとりなしがあったという。このときに、勝家や秀貞も赦免されている。

仮病を用いてお見舞いに来た弟を討った

だが、そんな信長の温情もむなしく、翌年に信勝は今度こそ兄の信長を討とうと挙兵計画を立てる。ところが、この謀反を防ぐべく動いた男がいた。柴田勝家である。

勝家といえば、のちに「鬼柴田」と恐れられた豪傑武者だ。不器用で情に厚いというイメージも強い。織田家の行く末を熟慮してかと思いきや、勝家の個人的な事情もあったようだ。

『信長公記』によると、信勝は評判の良い家臣をみな津々木蔵人(つづき くらんど)という男につけた。津々木は、信勝の男色の相手であり、特別扱いされていたようだ。得意満面の津々木にないがしろにされたため、勝家は無念に思ったということらしい。

次ページ信長は勝家の情報を信じて…
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事