【聖徳太子が制定】ではなかった? 「十七条憲法」や「冠位十二階」を実際に主導した"大物の正体"とは
例えば、十二条に記された「国司」は701年に成立した大宝律令ではじめて用いられたものであり、十七条憲法の文言は『日本書紀』編纂時に多くの潤色が加えられたと考えられる。
また603年に制定され翌年に施行された冠位十二階については、『日本書紀』にも厩戸皇子によって制定されたとは記されていないのである。
推古朝の「政治改革」を主導していた蘇我氏
ただし、十七条憲法と冠位十二階がまったくの創作というわけではない。
冠位十二階は隋の内官十二等の制度に影響を受けたものと考えられ、第2回遣隋使の小野妹子はこの冠位十二階の大礼(上から5番目)となっている。
第1回遣隋使では未開の国とされたが、中国式の政治制度を整えて第2回遣隋使が派遣されたことになる。
『隋書』倭国伝には600年の記事として、「軍尼(くに)一百二十人有り、なお中国の牧宰(ぼくさい/地方官)のごとし。八十戸に一伊尼翼(いなぎ)(稲置/いなぎ)を置く。今の里長の如きなり。十伊尼翼は一軍尼に属す」とある。
稲置とは、屯倉などの大王の直轄領の管理官のことであり、推古天皇の即位から8年で、日本が統一国家として整えられたことになる。その後、第2回遣隋使派遣までの7年間で、中国式の政治制度が整備された。
『日本書紀』が編纂された8世紀初頭は、律令制が導入されはじめた時期にあたり、律令には皇太子に相当する人物が編纂に携わることが慣例だった。こうした中で、律令の原型ともいえる十七条憲法も「皇太子」である厩戸皇子の事績とされたと考えられる。
十七条憲法と冠位十二階の制定は、厩戸皇子の外交担当者としての地位が向上した時期と重なり、その制定に何らかの関与をした可能性は否定できない。ただし、あくまでもこれらの政治改革は蘇我馬子が主導したと考えるのが妥当だろう。
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