【聖徳太子が制定】ではなかった? 「十七条憲法」や「冠位十二階」を実際に主導した"大物の正体"とは

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

では、厩戸皇子が推古朝において存在感を示すようになった時期はいつなのか。

大王となるためにはおおむね30歳以上であることが求められるが、国政に参加する場合もこれに準ずる年齢に達している必要があったと考えられる。実際に厩戸皇子が国政に参加したのは、30代に入る600年前後だったと考えられる。

「上宮王家」が継承した対新羅強行路線

厩戸皇子が政権に参画するきっかけとなったのが外交問題である。

562年に任那が新羅に吸収され、ヤマト王権は朝鮮半島の権益を失った。29代欽明天皇は亡くなる前に新羅征討と任那復興を遺言するが、敏達天皇は朝鮮半島への派兵は行わず、百済や新羅と外交を行っている。

こうした状況が変化したのが32代崇峻天皇の時代で、591年に新羅出兵のために2万余の軍勢が北部九州の筑紫に集められ、新羅を問責する使者が送られた。ところが翌年、崇峻天皇は蘇我馬子の配下の東漢直駒によって暗殺された。

推古天皇は即位後に新羅宥和政策へと転換する。即位から5年後の597年には新羅に使者が派遣され、新羅からは返礼として孔雀が贈られた。また、百済からもヤマト王権に朝貢の使者が来日している。

ところが、新羅との友好関係は長く続かず、600年に新羅に派兵が行われた。この時、征新羅大将軍に任命されたのは、蘇我馬子の弟である境部摩理勢(さかいべのまりせ)であることから、蘇我氏が主導したと考えられる。

蘇我氏は百済と密接な結びつきがあったことから、百済の脅威となっていた新羅へ派兵を行ったのだろう。

ヤマト王権軍は5つの城を落とし、新羅は朝貢を約束して停戦となった。しかし、この約束は守られることなく、602年に再び2万5000人の軍勢の派遣が決定され、征新羅大将軍として、厩戸皇子の同母弟の来目(くめ)皇子が任命される。

しかし、来目皇子は病を患い渡海することなく亡くなってしまう。翌年、再び派兵のために厩戸皇子の異母弟の当麻皇子が将軍に選ばれるが、途中で中止となった。

ここで注目されるのが、『日本書紀』で新羅征討を主導したのが厩戸皇子とされている点であり、任命された将軍も厩戸皇子の同異母弟であることだ。

次ページ蘇我馬子と上宮王家の利害が一致
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事