【聖徳太子が制定】ではなかった? 「十七条憲法」や「冠位十二階」を実際に主導した"大物の正体"とは
敏達天皇以来の対新羅強行路線を上宮王家(厩戸皇子の一族)が持っていたとも考えられる。対新羅政策で蘇我馬子と上宮王家の利害が一致したのである。
蘇我氏から上宮王家への「外交分野」の委任
この新羅派兵と並行して進められたのが、遣隋使の派遣である。第1回の遣隋使の派遣は、推古朝における最初の新羅派兵と同年の600年のことである。このことから、第1回遣隋使もまた蘇我馬子が主導したと考えられる。
一方で、607年に第2回遣隋使として派遣された小野妹子は蘇我氏と関係が薄い氏族であり、厩戸皇子が主導した可能性が高い。厩戸皇子が605年に斑鳩宮に移っていることから考えると、政権に参画した厩戸皇子は外交分野を任されたと考えられる。
さらに607年には、壬生部(みぶべ)(乳部/みぶ)が全国に設置された。壬生部とは国政に参画することになった大王候補の経済基盤を支える服属集団である。これらの外交記事を俯瞰すれば、対新羅政策についても、遣隋使についても、蘇我氏に代わって厩戸皇子が主導するようになったことがわかる。
『日本書紀』では厩戸皇子によって、593年に四天王寺、601年に斑鳩宮、607年に斑鳩寺が造営されたことになっているが、大規模な寺院・宮殿建築には渡来人の技術は不可欠であり、これらは蘇我氏によって造営されたと考えていいだろう。
やがて、蘇我氏と上宮王家との協力関係が構築される中で、外交は蘇我氏から厩戸皇子に委任され、斑鳩宮が厩戸皇子に与えられたと考えられる。
『日本書紀』では厩戸皇子の多くの事績が紹介されており、教科書でも33代推古天皇が即位すると、皇太子兼摂政として、冠位十二階や十七条憲法を制定、遣隋使の派遣、斑鳩寺をはじめとする寺院の建立などを行ったとされる。
しかし、冠位十二階と十七条憲法について厩戸皇子が主体的に策定した証拠は見つかっていない。
『日本書紀』によれば、604年に厩戸皇子が「自らはじめて憲法十七条をつくる」とある。しかし、そもそもこの十七条憲法自体を偽作とする説が江戸時代からある。


















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