伝説の床山、後世に残る「神業」ができるまで 高校中退し相撲の道へ、床寿さん50年の軌跡

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美容学校の特別授業で「大銀杏」の結い方を披露する日向端さん(写真提供:山野美容芸術短期大学)
空前の人気を博す大相撲。初場所では、10年ぶりとなる日本出身力士・琴奨菊の優勝もあり、さらに盛り上がりに拍車をかけている。
その相撲人気を支えている裏方には、数々の名力士たちの心身を支え、かつて朝青龍が尊敬を込めて「大先生」とまで呼んだ”伝説の床山”がいた。
※ 後編は2月6日(土)の掲載予定です

 

「相撲界は甘くないよ、あんちゃん、大丈夫か?」

1959年7月24日、当時、両国駅前にあった高砂部屋を訪れ、元横綱前田山の高砂親方に挨拶すると、日向端隆寿(ひなはた・たかじゅ)さんはいきなりそんなことを言われた。

親方は身長181センチ。今なら相撲取りとして決して大きくはないが、この時代では大柄の部類。しかも現役時代は強烈な張り手などの激しい相撲で鳴らしていたから、当時15歳の日向端少年は「まるで赤鬼のような威圧感」に気圧され、小さな声で「はい」と答えるのが精いっぱいであった。

こうして日向端少年は高砂部屋の床山となった。

巡業が来れば学校を休んで見に行った子ども時代

大相撲の床山は、力士や行事、呼び出しと同様、各相撲部屋に所属する。現在、床山の定員は50人。各部屋はそれぞれ独自に床山を採用するが、定員に空きがないと新たに人を入れることはできない。

青森県出身の日向端さんは子どものころから相撲が大好きだった。青森に大相撲の巡業が来た時には学校を休んで見に行ったほどだ。だから中学校を卒業したら、相撲の世界に入りたいと考えていた。

歌が好きで、のどに自信があったから、呼び出しになるのが目標だった。それを知っていた日向端さんの姉はあるとき、八戸市内の精肉店の店頭に相撲の番付が貼ってあるのに気が付き、店主にその理由を尋ねた。店主は以前高砂部屋で呼び出しをしていたが、家業を継ぐために戻ってきたのだという。そこで姉は店主に頼んで、高砂部屋に連絡を取ってもらった。

だがあいにく、このとき高砂部屋では呼び出しも床山も空きがなく、断られてしまった。

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