伝説の床山、後世に残る「神業」ができるまで 高校中退し相撲の道へ、床寿さん50年の軌跡
仕方なく日向端さんは八戸水産高校に進学。ところが高校に入学して3カ月ほど経ったころ、その精肉店の店主から日向端さんの家に連絡がきた。高砂部屋の床山に一つ空きが出たというのである。
日向端さんは迷うことなくすぐ高校に退学届を提出。名古屋場所が終わり、親方や力士が東京に戻ってくるタイミングに合わせて、高砂部屋の門をたたいた。
床山になると、床山としての名前が付けられる。床の字に本名の1文字をつけるが通例で、日向端さんは「床寿」という名前になった。そして高砂部屋で大勢の力士たちとともに寝起きする生活が始まった。
もちろん床山といっても、最初は見習いの仕事。いきなり力士の髪に触れる仕事などできない。床寿さんが毎朝午前4時に起きてまずする仕事は、部屋の外周りの掃除だった。それが終わると今度は親方の愛犬の散歩。そのあとはまきを燃やしての風呂焚きと続いた。風呂に入るのは、朝の稽古を終えた力士たちだ。
「空腹」との壮絶な戦い
番付順に風呂に入った力士たちが出てくると、ようやく髷を結う床山の本業の時間になる。といっても普段は大銀杏ではなく丁髷である。当時、高砂部屋には3人の先輩床山がいて、入門当初の床寿さんはその仕事ぶりをじっと見て手順を覚えた。
これだけの人数の床山がいたのは、所属力士が多かったからである。床寿さんの記憶によれば、そのころ高砂部屋にいた力士は関取だけでも12、3人。幕下以下の若い衆となると60人から70人いたという。
それだけ力士の人数がいると、床山が3人いても全員の髷を結い終わるのは午後3時ごろ。床寿さんたちはそれからやっとその日初めての食事をとることができるのだった。
「入門したばかりのころはいつ朝食が食べられるのだろうと思っていたよ。相撲の世界では朝食がなくて1日2食ということを知らなかったんだね。最初のうちは腹が減って腹が減って、それがいちばんつらかったよ」
50年以上前のことを日向端さんは懐かしそうに振り返る。
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