自由奔放な織田信長が認めた「一度も失態を犯さなかった男」 大河ドラマ「豊臣兄弟!」個性溢れる戦国武将を支えた右腕の存在
そんなふうに戦国大名を組織のリーダーとして見ていったときに、カギを握るのが、ナンバー2の存在である。
組織運営のカギを握る「ナンバー2」
信長には、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀ら「織田家四天王」とされる重臣がいたが、そのなかで、一度も失態を犯すこともなければ、信長と対立することもなかったのが、滝川一益である。
近江甲賀郡の地侍の家に生まれた一益は、鉄砲の産地である堺にわたり、射撃技術を磨いたところ、30歳のときに信長にスカウトされた。武田勝頼率いる武田軍との長篠・設楽ヶ原の戦いでは、滝川が鉄砲隊の指揮をとり「進むも滝川 引くも滝川」と高く評価された。
一益はその後の甲斐武田攻めにおいても、素早い侵攻で武田軍を圧倒。勝頼の首を討ち取って、武田家を滅亡へと追いやっている。
そんなふうに信長のナンバー2として貢献した一益だったが、武田家の滅亡は、ある男が戦死したときから、カウントダウンが始まっていた。その男とは信玄の弟・武田信繁である。
信繁は武田信虎の次男として生まれた。兄の晴信(信玄)より4歳年少にあたり、父の信虎からずいぶんと可愛がられたようだ。信虎は何かと長男の信玄を疎んじて、信繁のほうに当主の座を譲ろうとしていたという。
だが、信繁自身には野心がなく、反信虎派の家臣たちに兄の信玄が担がれたときも、父ではなく兄に味方し、その後も兄を支え続ける道を選んだ。江戸中期の学者で幕府の儒臣だった室鳩巣が『駿台雑話』の中で信繁をこう絶賛している。
「兄信玄に仕えて人臣の節を失うことなく、その忠信、誠実は人の心に通じ、加えて武威武略に長じ、知剛知柔、まことの武将とは信繁のごとき人物をいう」
越後の上杉謙信と川中島の戦いで何度となく激突したが、なかでも激戦となった第4次の戦いにおいて、信繁は討ち死にしてしまう。37歳の生涯を閉じることとなった。
その後、信玄は後継者候補だった嫡男の武田義信に不信感を持ち、死に追いやるなど、後継者問題で迷走。織田家に滅ぼされることになった。欠かせないナンバー2だっただけに、信繁を失った信玄の精神的なダメージは大きかったようだ。


















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