自由奔放な織田信長が認めた「一度も失態を犯さなかった男」 大河ドラマ「豊臣兄弟!」個性溢れる戦国武将を支えた右腕の存在

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新たなリーダーとなった信玄が、家臣のマネジメントに心を砕いたのは当然だろう。信玄は「毎朝の出仕があれば、私用も入れにくいだろう」と、今でいうフレックス制度を実践したともいわれている。それだけ家臣に気を遣っていたということだ。

また、信玄は、家臣や民が戦で疲弊することのないように「戦わず勝つ」べく、徹底した情報戦を展開。僧や巫女、剣術使いなどからも情報を得て他国を分析し、スパイを送り込み、嘘の情報を流すことで混乱させた。事前に相手国を切り崩したうえで、合戦を仕掛けるようにしていたのである。

そうして勝利を重ねながら、武田軍のイメージカラーの赤や朱で甲冑や旗を塗って目立たせながら、「風林火山」のスローガンを高々と掲げた。「常勝無敵の甲州軍団」としてのブランドイメージを広めることに余念がなかった。

そんなふうに多方面に気を配った信玄だったが、後継者問題だけはうまく対処できず、信玄が病死したことで、武田家は滅亡の道を歩む。「アピール上手だけど内情は危ない老舗企業」、それが武田家である。

そのほか、武田家のライバル上杉家はリーダーの謙信が義に厚く、一見するとホワイトな環境だが、関東の治安を守るべく過酷な越山を繰り返した。領土欲がないリーダーのもとで働くことを思うと「努力や苦労が報われないブラック企業」に近かったのではないか。

豊臣はベンチャー、徳川はホワイト企業

豊臣家は、秀吉が低い出自から身を立てて一代で築いた。企業買収で急成長したベンチャーにたとえればしっくりとくる。「本能寺の変」以後、急速な勢いで天下統一事業へと邁進した。次々と周辺国を巻き込んでいくそのスピード感は、ベンチャーがダイナミックな買収を仕掛けて、どんどん拡大していく様そのものだからだ。

徳川家康は、今川家や武田家などの敵対勢力を次々に駆逐していくなかで、今川家や武田家の旧臣たちを、自分たちの家臣団に組み込んで、組織を強化した。息子・秀忠への世代交代も2元政治を敷きながら慎重に行ったことを思えば、「人材を活かして組織力を強化したホワイト企業」といえるだろう。トップリーダーは健康であるべし、と体調管理を徹底した点でも、家康から現代の経営者が学ぶ点は多い。

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