ハーンが赴任した年は記録的な大雪… 朝ドラ「ばけばけ」小泉八雲とセツを結んだ意外なモノとは?
「苦しい目に会いました。道端で眠ったりしたこともしばしばでしたし、召使い、給仕、印刷屋、校正係、雑文屋として働きながら、少しずつ這い上がったのです」
這い上がったきっかけは、印刷工ヘンリー・ワトキンと出会ったことだ。彼に面倒をみてもらい、仕事を身につけると、地元の新聞に寄稿を始めて、記者として大活躍する。ニューオーリンズに移ってからは、新聞社の文芸部長も経験し、やがて文筆家として独立して筆を振るった。
メキシコ湾内のグランド島や、カリブ海のマルティニーク島などを転々とした後、ハーンはある国で腰を落ちつけることになる。それが「日本」である。
来日すぐの暴挙が「松江赴任」へとつながる
1890年4月、まもなく40歳を迎えようとするときに、ハーンは来日を果たす。ハーパー社から「日本に滞在して旅行記を書いてみてはどう?」と打診されたのが、来日の直接的なきっかけだが、それだけではない。
1884年にニューオーリンズで万国博覧会が開催されると、ハーンは新聞記者として日本館に通いつめた。農商務省官僚の服部一三から展示物の説明を受けて、日本文化にたちまち心を奪われたようだ。
また『古事記』の英訳を読んで、日本がハーンの生まれであるギリシャと同じく多神教だと知り、その文化に興味を持ったとも言われている。
そんなハーンにとって、日本のなかでも神話由来の名所の多い島根県松江市に赴任したことは、理想的な展開だったといえよう。
といっても、ハーンが意図して松江の赴任を希望したわけではない。あろうことか、ハーンは日本に到着するや否や、ハーパー社と決別。ともに日本に来たハーパー社の挿絵画家ウェルドンのほうが、滞在記を書く自分よりもギャラが高いと知って、激怒したのである。
気持ちはわからなくもないが、旅費を出しているスポンサーと揉めてしまえば、異国の地で路頭に迷うことにもなりかねない。絶縁するにしてもタイミングがあるだろうと思うが、ハーンは後先考えずに、感情的になるところがあった。


















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