渓斎英泉を「次代の美人画絵師」として売り出す
渓斎英泉は美人画と風景画の両方を手がけた絵師で、『木曽街道六十九次』を広重と分担したことでも知られる。蔦重が生きていた時代の感覚からすると、英泉の退廃的でどこか陰のある美人画は、歌麿の路線を継承しつつ、新しい方向に発展させる可能性を持っていた。
蔦重ならば、英泉の美人画を軸に、遊里を舞台にした洒落本や人情本と組み合わせた企画を立てたかもしれない。名づけて『当世美人合鏡』。歌麿の大首絵を継承しつつ、英泉独特の退廃的な色気を前面に出していく。
ただし遊女を直接描くのではなく、「市井の美人」という体裁にして規制をかわしながら、各図に短い人情噺を添える。書き手は為永春水(ためなが しゅんすい)か、あるいは柳亭種彦(りゅうてい たねひこ)のような戯作者がよいだろう。絵と文が一体となって、一人の女の物語を語る構成となる。
歌麿を世に出したときと同じ手法で、蔦重が英泉を「次代の美人画絵師」として売り出した可能性は高い。
蔦重らしい企画の特徴
いろいろ想像を巡らせていると、蔦重らしい企画には、いくつかの特徴が見えてくる。
第一に、複数の才能を組み合わせる「合作」の形式だ。絵師単独、作者単独ではなく、両者を組み合わせることで相乗効果を狙う。蔦重の強みは、単に本を出すことではなく、絵師・作者・彫師・摺師を組織して一つの「作品」を作り上げるプロデューサーとしての手腕にあったといえよう。



















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