十返舎一九のヒット作を実用的にアレンジ
文化・文政期(1804〜1830年)には、十返舎一九や滝沢馬琴といった戯作者、渓斎英泉(けいさい えいせん)のような絵師が活躍することになった。
一九は蔦重の店に居候していた時期があり、蔦重が亡くなる直前まで接点があった。もう少し蔦重が長生きしていれば、一九の出世作を蔦重が手がけていた可能性は十分にある。
一九といえば、『東海道中膝栗毛』の滑稽本で大ヒットを放っている。蔦重ならば、ヒット作に便乗しつつ、蔦重流にアレンジし、図解を充実させた『東海道滑稽図会』を企画したかもしれない。
各宿場の絵を北斎に描かせて、一九の軽妙な文章と組み合わせる。北斎の奇抜な構図と一九の洒落が相乗効果を生む形である。さらに各宿場に狂歌を添え、巻末には、名物や旅籠の相場など道中で役立つ情報も載せる。実用性と娯楽性を兼ね備えた総合企画として、広い読者層を狙うことができそうだ。
曲亭馬琴の博識ぶりを「怪異ジャンル」で生かす
曲亭馬琴も若い頃は蔦重の店に出入りしていた。蔦重の死後、馬琴は長編読本『南総里見八犬伝』を28年かけて完結させている。
蔦重は比較的短期間で完結する企画を次々と打ち出すタイプだったから、馬琴の緻密で壮大な構想とは相性が合わなかっただろう。ただ、馬琴は博識で考証に強かったので、それを生かして、例えば怪異や妖怪などが登場する怪異譚を書かせても面白いだろう。
というのも、文化・文政期には怪談や化物が流行しており、蔦重ならこの流れを逃さなかったはずだ。
のちに『百物語』シリーズ(天保年間)で妖怪画を手がける北斎に化物や幽霊の絵を描かせて、馬琴が文章を書くことで、怪異譚を添えた読本形式にする。そんな『化物草子』が誕生したかもしれない。馬琴の博識と北斎の奇想が組み合わされば、かなり読み応えのある作品になったはずだ。



















無料会員登録はこちら
ログインはこちら