葛飾北斎や歌川広重とタッグも? 「べらぼう」蔦屋重三郎がもし長生きしていたら、どうなったか?

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もし蔦重がもう20年、30年長生きしていたら、江戸の出版文化はどのように変わっていただろうか。「歴史にif(イフ)はない」とお叱りを受けるかもしれないが、型破りな蔦重に敬意を表して、そんな「べらぼう」なことを考えてみた。

蔦重がもし長生きしていたら

蔦重がもし長生きしていたら➀
葛飾北斎や歌川広重らと「狂歌×名所」の新作を発表

もし、蔦重が長生きしていれば、葛飾北斎や歌川広重らのプロデュースも行ったことだろう。

北斎とは生前に接点があり、寛政年間に蔦重のもとで黄表紙の挿絵などを手がけている。ただし当時の北斎はまだ「宗理」などの号を名乗っていた時期で、天保初年頃(1830年頃)に制作された『冨嶽三十六景』に代表される風景画のスタイルは確立していなかった。

もし、蔦重ならば、北斎の多彩な才能をどう活かしただろうか。歌麿を美人画で、写楽を役者絵でプロデュースしたように、北斎に何か新しいジャンルを開拓させた可能性はある。北斎は気難しく、版元を頻繁に変えたことを思えば、簡単にはいかないだろうが、そこは海千山千の蔦重のことだから、うまく手綱を握ったのではないだろうか。

一方の歌川広重は寛政9(1797)年生まれで、奇しくも蔦重が亡くなった年に生まれている。広重が『東海道五十三次』で名を上げるのは天保4(1833)年頃だから、蔦重が80歳近くまで生きていれば、ギリギリ接点があり得たということになる。

狂歌絵本を手がけた蔦重ならば、文化・文政期に流行する名所絵を組み合わせた『江戸名所狂歌合』といった作品を生み出したかもしれない。葛飾北斎か、あるいはまだ若い広重に江戸の名所を描かせ、各名所にちなんだ狂歌を配するというものだ。

といっても、単なる名所案内ではなく、各名所に遊女や茶屋の女を点景として描き込み、狂歌にも色恋の要素を織り交ぜる。表向きは「名所案内」という体裁なので規制をかわしつつ、実質的には遊里の香りを漂わせる、というギリギリの線を狙ったに違いない。

狂歌師は大田南畝(蜀山人)の一門から選び、絵と歌が響き合う構成にする。南畝は文化・文政期にも健在だったから、蔦重との再タッグは十分にあり得ただろう。

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