「日米開戦」に反対の山本五十六が肌身で感じていた、日本が総力戦で【必敗する】具体的な根拠

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

戦前であっても、現場は政府の動向に従わなければならなかったから、シビリアンコントロールはそれなりにあった。しかし、世論が日米開戦を辞せずとする艦隊派を後押ししていた。

日中戦争が泥沼化し、蔣介石の中華民国をアメリカやイギリスが裏面から支援していたから、日本国民にも反米英感情が湧き上がっていた。

さらに、当時のエネルギー資源の根幹である石油をほぼ握っていたのが米英である。だから、資源の少ない日本の生命線を米英に握られていることも、日本国民には許せなかった。

しかし、米英と戦って勝てる見込みなど微塵もないことを海軍省の条約三羽烏は知っていた。特に五十六は2度にわたるアメリカ赴任と、長期の欧米視察で、アメリカの国力(産業力、資源力)は日本の10倍、20倍であることを認識していた。

「日米開戦」にとことん反対していた山本五十六

そもそも、当時の日本の貿易の70パーセントは米英が相手であったし、海軍の軍用物資も多くがアメリカから仕入れていた。このような状況で米英と戦争できると思う方がおかしい。

世界の戦争は、第一次世界大戦から総力戦になっている。最終的には国力の高い方が勝つ。最初は負けていても、産業力や資源があれば、最後は底力をみせるのだ。

当然、日米開戦を辞せずとする艦隊派もそのことはわかっていた。しかし、彼らは、日本に資源はないが、東南アジアのインドネシアを占領して石油を手に入れれば、米英に対抗できると考えていた。全くの精神主義ではなかった。

この考えに、軍事専門家も、思慮のあると思われる日本国民も乗っかった。インドネシアの石油を手に入れれば何とかなると考えていた。

しかし、思慮が足りない。インドネシアを占領したとしても、そこから石油を運ぶためには輸送が必要である。現在でいえばシーレーンを確保しなければいけない。

インドネシアから日本までの距離は5000kmにわたる。本州は1500km、日本の北の端から南の端までは約3000km、それよりも長い距離の海を守ることなど、一時的にできたとしても、米英が総力をかけて攻撃してきたら、できっこない。実際、太平洋戦争では、その通りになった。

次ページ「腰抜け、売国奴」とののしられた五十六
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事