「今日のご飯何?」が重圧に——。料理の時短が進むほど「献立決め」が苦行化する"皮肉"。「考える家事」はシェアできるか?
2つ目の問題は、作業と異なりシェアが難しいこと。
3つ目は、見えない家事なので、積極的に家事シェアを行う家庭でも、計算に入れ忘れる、あるいは過小に見積もる可能性があることだ。
これら3つの問題は、冒頭に挙げた「家事の効率化が究極まで進んだ」という話にもつながる。
これまでの経緯を確認しよう。献立の型を気にしない女性が増えたのは、家事をラクにするムーブメントが広がった結果、理想の家事を実践するべきという「呪い」が解けてきたからだろう。
呪いは高度経済成長期に大きくなった。専業主婦が急増し、台所革命と言えるほど生活が便利になって、料理は一気に高度化した。食材が豊富になり、台所環境が良くなり、料理メディアが充実して料理の選択肢が増えた結果、献立の悩みが増大した。
しかし、高所得の夫と結婚し、憧れだった主婦の座を手に入れた女性たちは家事意欲が高く、良妻賢母思想の影響もあって、主婦は自分を犠牲にしてでも家事に勤しむべき、と考える人も多かった。料理メディアの影響で、日替わり献立で一汁二菜または三菜を整えるべき、という思想も広まっていた。
それを実践した母親のもとで育った娘たちは、成長すると母親を真似ようとした。しかし、時代が変わればライフスタイルも変わる。特に働く女性の負担になっていたのを、「現代にそれは無理」としたのがこの10年。
この10年のムーブメントで、家事の負担を減らせた人は多いだろう。時短以外にも、家族との家事シェアが進む。家事代行サービスも利用しやすくなった。しかし、ラクになったのは、あくまで作業だ。作業は分ける、減らすなどできるが、「考える家事」は減らせない。
「考える家事」の負担は減らせるか?
考える家事は、究極の家事と言える。もともと、日本に「主婦」という概念が入ってきた明治半ば、想定されていた主婦は、使用人たちを監督する「奥様」だった。
奥様は自分の手を動かさないが、作業の指示を行う必要はあった。現代人が家事代行サービスを頼む場合も、指示は必要だ。
献立を決めるのがしんどいのはつまり、作業がラクになってきたので、最後に残った考える家事がクローズアップされた状態と言える。
では、献立を考える家事は絶対にシェアできないのだろうか。
シェアはできる。料理を交代制にし、当番が献立も決めるなら、献立作りの休日ができる。休む、あるいは別の人が料理することで、自分の発想の幅も広がるかもしれない。
また、交代要員は料理しない家族と違い、「今晩、何が食べたい?」と聞いた際の答え方も変わる。「冷蔵庫にキャベツがあるから、ホイコーローにしたら?」といった具体的で実現可能な案を出す。アイデアを出せない場合も「考えるの、大変だよね」と共感してくれるかもしれない。
また、今なら生成AIに相談する、という手もあるだろう。
あるいは、決める大変さを家族に説明し、自分の担当家事を減らす。やることが減れば、考える余裕もできる。考える家事はクリエイティブで高度なので、心身の余裕が必要なのである。疲れ果てているときにアイデアは浮かんでこない。
消えない悩みかもしれないが、減らすことはできる。それが献立である。
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