天明の大火で京都御所焼失!再建計画で老中・松平定信が陥った「財政vs朝廷」のジレンマ

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京都御所
天明8年の火災により、京都御所が焼失してしまいます(写真:泣き虫 / PIXTA)
今年の大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』は横浜流星さんが主演を務めます。今回は天明の大火の対応にあたった定信と朝廷のいざこざについて解説します。
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未曾有の火災で京都御所が焼失

天明8年(1788)1月29日の夜、京都で「未曾有の火災」が起こります。この火災により、京都御所も焼失してしまいます。江戸幕府の老中・松平定信は御所造営の総責任者に任命されることになります。

しかし、当時の幕府財政は、逼迫していました。定信は仮普請=間に合わせでの御所造営を考案しました。それに対し、朝廷は平安時代の様式を再現した御所を造営したいと考えていたのです。幕府と朝廷では、御所造営案に相違があったのです。

同年5月22日に都に到着した定信は、関白・鷹司輔平と会談。御所造営について話し合います。その後、定信は関白に対して、御所造営に関する自身の見解を記した文書を提出することになります。その中においては、幕府の財政が、草木が萌えるように軌道にのり始めた矢先に「霜・雪に遭う」(京都御所の炎上)との嘆きが書かれています。

将軍(11代将軍・徳川家斉)からは「早急に御所を造営せよ。だが、民を苦しめてはならない」との厳命があったようですが、幕府財政の困窮もあり、それはなかなか難しい。そうした状況においては、朝廷には、造営問題で「妥協」してもらう他ありません。

定信は、古儀・旧制に則った御所を造営するとなれば、物価上昇のため、莫大な費用が必要だと説明。造営費用を財政的に困窮する大名やその領民に負担させたとなると「宮室(天皇の宮殿)の美は、小民(庶民)の膏血(人間の油と血。人が苦労して得たものの意)を搾り取ったものだ」と非難されかねないとも指摘します。

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