天明の大火で京都御所焼失!再建計画で老中・松平定信が陥った「財政vs朝廷」のジレンマ
この新御所造営については、かつては、定信(幕府)が費用を惜しまず造営に全面的に協力したと見做されてきましたが、決してそうではなく、本当は渋々ながらの協力だったことが分かります。朝廷のプランに即して御所を造営することは、定信にとっては不本意だったでしょうが、やるからには幕府のメリットになるように実行していきます。
御所造営を「幕府直営の公共事業」とすることで…
幕府は、御所の焼土を運び出して、そこに新たな土を入れて地固めする作業を老人や子供にやらせることを命じています。これは御所造営を「幕府直営の公共事業」とすることにより、徳川幕府の威光を高めるためだったと言われています。
幕府の尽力もあり、寛政2年(1790)に新御所は完成。光格天皇は仮御所(聖護院)から新御所に移られます。定信は、新御所造営を総括して「関白殿をはじめとして、皆、関東(幕府)の御威光を忝(かたじけな)く思っている」(『宇下人言』)と述べています。
不本意ながらも、朝廷の要求を受け入れて、新御所造営に協力した幕府。だが、御所造営を幕府の威光増大に活用したことは、転んでもただでは起きない幕府の強かさを示していると言えるでしょう。
(主要参考文献一覧)
・藤田覚『松平定信』(中公新書、1993年)
・高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館、2012年)
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