秀吉に鶴松が誕生→兄弟の関係に変化? 《大河『豊臣兄弟!』主人公・秀長の生涯》一時は険悪な空気も…熊野山の材木事件とは?
関東・北条攻め
天正17年(1589)の年末、秀長は風邪をひいて体調を崩してしまいます。
秀長は療養のため有馬温泉へ向かいますが、温泉から帰っても体調は一向に良くならず、郡山に帰ることなく京都に留まっていました。
これを受けて、奈良の興福寺、春日大社、東大寺などでは秀長の病気平癒の祈祷が行われましたが、年が明けても秀長の体調は回復しませんでした。そして天正18年(1590)の正月、徳川家康に嫁いでいた妹・朝日が亡くなります。
しかし、秀吉の関東出陣の直前だったため、朝日の死は公にされることはありませんでした。とはいえ、人の口に戸は立てられぬものですから、おそらくこの訃報は秀長の耳にも届いたことでしょう。同じく京で病に伏せっていた秀長は、妹の死を心細く思ったのではないでしょうか。
また、彼女は、豊臣政権において秀長と同格以上に位置付けられる実力者・徳川家康の妻であり、徳川秀忠の養母であったとも考えられています。羽柴と徳川をつなぐ重要な存在であった朝日の死は、豊臣政権の落日を秀長に予感させたかもしれません。
同年3月、ついに秀吉は上洛を拒み続けた北条氏直を討つべく関東へ向けて出陣しました。この戦いは、秀吉にとって天下一統の最後の総仕上げを意味する特別なものでした。世間に対してもこの大一番を見せつける必要があり、秀吉は壮大な軍勢を率いて京から出発したのです。
例えば、それまで橋が架けられることがなかった鴨川の三条河原に三条大橋を架け、秀吉が最初に通るまでは往来禁止にしたり、諸大名には見た目を綺麗にして出陣するよう仰せつけるなど、関東への出陣を大いに盛り上げました。
しかし、病に伏せる秀長は、この秀吉の出陣を見送ることしかできませんでした。秀長は、宿所を訪れた秀吉と門前で対面したという記録が残りますが、2人の間にはどのような会話があったのでしょうか。秀長の無念さは想像に難くありません。



















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