秀吉に鶴松が誕生→兄弟の関係に変化? 《大河『豊臣兄弟!』主人公・秀長の生涯》一時は険悪な空気も…熊野山の材木事件とは?
しかも、年が明けた天正17年(1589)の正月になっても秀吉の怒りは収まらず、秀長は新年の挨拶をすることも許されませんでした。
これは憶測にすぎませんが、九州で兵糧を売りさばこうとしたエピソード(諸将に兵糧を分け与えず売ろうとして秀吉に怒られたという話)を思うと、この熊野山の材木事件に秀長が一枚かんでいて、不当な利益で懐を温めようとしていた……なんて考えるのは邪推でしょうか。
また、この年の9月、秀吉は諸大名に夫人を伴って聚楽第周辺へ在京するよう命令を下しています。実質的な人質政策とも言えます。それは秀長とその家臣も例外ではありませんでした。
さらに10月には、羽柴秀次や宇喜多秀家、公家衆らを伴って秀吉が奈良へ下向してきます。
その目的は、東大寺の蘭奢待(らんじゃたい:足利義満や織田信長ら、時の権力者が一部を切り取った香木)を切り取るためと考えられていますが、なんらかの理由があって延期となり、目的を果たせぬまま秀吉は京に戻りました。
秀長の領国である奈良で、蘭奢待の切り取りという一大イベントが催されたにもかかわらず、これに秀長が関わったという記録は一切ありません。
秀吉の怒りが未だ収まらず、外されてしまったのか、体調不良による病欠か、真相はまったくわかりませんが、これまでの2人の動向を見れば、ここに秀長がいないのは不自然極まりないことです。
奇しくも秀吉の若君・鶴松が誕生した前後で、2人の関係にも変化が訪れていたように思えます。
【マンガ】家臣の賄賂! 兄弟関係に暗雲…



















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