74歳ヒョウ柄おばちゃんは「ガオーッ!」と吠え続ける→2900円で"安くて派手"を貫き、「着て自分を鼓舞してるねん」と笑う生き方と商売の流儀
働き出してからは生活を切り詰めてお金を貯め、念願のヒョウ柄デビュー。数十万円するレオパードの毛皮を買ったこともある。「とにかく着たい」一心だった。
高校卒業後、上田安子服飾専門学校に進学したのも「卒業記念にヒョウ柄のスカーフをくれる」と聞いたのが理由のひとつ。けれど中退してしまい、結局もらえなかった。
還暦、息子のふんどしから始まった「なにわ小町」
それから時は過ぎ、高橋さんが再びヒョウ柄と向き合うことになったのは、還暦を迎えた2011年だった。きっかけは、デザインの仕事を志す息子が手掛けた「ふんどし」だ。
たまたま通天閣の社長の目に留まり、「うちで吊りいや(飾りなさい)」と声をかけられ、一気に注目を集めるように。これを機に、安い賃料で一棟を借りて息子は2階でふんどしを、高橋さんは1階で浴衣を販売することになった。今の「なにわ小町」の場所だ。
とはいえ、当時の周辺はかなりのシャッター街で人通りは少ない。それでも、2012年に「通天閣100年祭」が予定されていたことから、「そこまではがんばろう」と決めた。
すると100年祭で奇跡が起こる。当時、大阪市長だった橋下徹さんが店にやってきたのだ。南海電鉄が100年祭を記念した浴衣を作ったため、その着付けに訪れたそうだ。南海電鉄の会長ら著名人も訪れ、新聞やテレビに取り上げられて話題になった。それに伴い、ふんどしと浴衣の店も盛況に……。しかし5年ほどで客足が減り、「もう無理やな」と思っていたところ、商店街の人たちから口々に「ママ、がんばってえや」と声をかけられた。
高橋さんの店が閉まってしまうと商店街が暗くなる。「少しでも長く商店街を残しておきたいから、店を続けて」と頼まれたのだ。
高橋さん自身も、「新今宮の下町な空気が、自分の飾らないキャラクターに合っている」と感じていた。「だったら浴衣でなく、好きな服屋がやってみたい」と思ったが、近所には洋服店があった。そこで「被らないように」と思いついたのが“原点”であるヒョウ柄である。



















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