「自分とは何か」「人は死んでも存在するのか」気になるのは今も昔も同じ。悩んだブッダの弟子がブッダから聞いた答えが驚愕だった
気になるのはここだ。固定の実体としての自我がないのに、いったい何が輪廻によって生まれ変わるんだろう?
不変の魂のようなものがあってこそ、古くなった服を捨てて新しい服を着るように、来世に移ることができるんじゃないかな?
自分があるとかないとかどうでもいい!
なるほど、よくわかる。実際にブッダの弟子たちも、ブッダに同じようなことを尋ねたことがある。ところがブッダはこういう質問はそれほど重要ではないと考えていたようだ。そして簡単な比喩を使ってこう答えた。これは「毒矢のたとえ」といわれている。
僧侶のマールンクヤはある日、こんなことを考えた。「この世は永遠なのか、はかないものなのか?終わりがあるのか、それともないのか?霊魂と身体とはいちなのか別なのか?人は死んだ後にも存在するのか存在しないのか?もしくは存在するわけでもなく、存在しないわけでもないのか?」
そしてこれをブッダに聞いてみたところ、ブッダはこう答えた。
「マールンクヤよ、ある人が毒矢に射られたとしよう。その人の友人や同僚や家族がその毒矢を抜くために、医者を呼ぶだろう。ところがその人がこう言うのだ。『私を射ったのは王族か、バラモンか、庶民か、それとも奴隷か?それがわからないうちは、矢を抜かない』と。
そして、『私を射った人は背が高いか、小さいか、まあまあか?私を射った人の皮膚の色は黒いか、黄色か、白か、黄金色か?これがわからないうちは、この毒矢を抜かない』と。マールンクヤよ、そう言っているうちに、彼は死んでしまうだろう」
この回答には、ブッダの教えの核心が込められている。
ブッダの無我説は、自我があるのかどうかにする抽象的な理論ではない。
むしろ、実体がないものを実体としてとらえることで生じる苦しみを取り除くための、めちゃくちゃ実用的な教えなのだ。
昔もいまも人々は哲学的で難解な問いの中で論争するのを好み、その中をウロウロすることに時間を注ぐ。
これに対してブッダは、シンドイ論争からは距離をおき、その中から出ていって実際に行動することを提案しているのだ。
君が苦しみの中にいるのなら、まずその苦しみから取り除きなさい。
ブッダは言う。「マールンクヤよ、毒矢に射られた者は、まず毒矢を抜くのが先だと思わんかね?」
僕たちがまず考えるべきなのは、僕たちの中にある毒矢を抜くことについてだ。
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