「最愛の娘が突然亡くなって…」「たくさんの景色を見せてあげたい」50歳で地位も名誉も捨てた俳優ベンビーの"強すぎる決意"
当時のオリジンは、キャン×キャン、ハンジロウ、三日月マンハッタン、スリムクラブらも所属するほどで、沖縄では老舗として名が通っているお笑い芸能事務所。プロの芸を初めて見たことで激しい衝動を覚え、3カ月後にはオリジンに所属していた。
今まで進路にしても、頭が良いから進学校に行く、沖縄から出たくないから琉球大学と、常に直感に従って行動してきた。プロのお笑いを見て天啓に打たれ、芸人になるために芸能事務所に入ることに何の不安も迷いもなかった。
「全国デビューっていうのが最低限だったので、東京NSCか沖縄か、どっちが近道かを考えました。奇抜な見た目でもないし、飛び道具的に引き上げられるような芸風ではないと思ったので『東京に行っても埋もれそうだな』と感じ、沖縄でトップをとって目立ったほうが早いなっていうので、地元のオリジンに所属しました」
プロ注目の高校球児がいきなりメジャーに行くか、NPBで活躍してからメジャーに行くかと同じ論法だ。
芸人になった以上、全国で売れないと意味がない
「芸人になった以上、全国で売れないと意味がないと思ってました。沖縄で売れればいいと思うのなら他の仕事でもいいっていう感じがあり、初めて“これだ”っていう直感めいたものがあったのがお笑いでした。それ以降、全部直感に従って動くことになり、やるって決めたものは揺るがなくやりましたね。相談もしないで決断です」
26歳でプロの芸人となり、正式に芸名をベンビーと命名し、高い志をもってピン芸人として舞台に立つことになる。
「3年目に全国で有名になるでしょう」と余裕しゃくしゃくで全国デビューの計画を立てるが、未来予想図は簡単に崩れ去る。これは沖縄芸人あるあるで、“全国”の壁は崩壊前のベルリンの壁よりも高くそびえ立っていた。
「今やるべきことをやってチャンスを待つ」をモットーにベンビーは地道に活動を続けた。事務所内でも核弾頭として「全国やぞ」と皆を鼓舞しながら着実に力をつけていく。
やがて沖縄の賞レースの常連になったベンビーは、沖縄限定の『O-1グランプリ』で唯一となるピン芸人での優勝を皮切りに、『お笑いバイアスロン』準優勝と、ベンビーは名実ともに「沖縄のベンビー」に登りつめる。

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