大河【べらぼう】松平定信は「まだまだ手ぬるい」?幕府の厳しい言論統制で打ち首獄門にされた人物

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同作では、松平定信を菅原道真に、将軍の徳川家斉を醍醐天皇に置き換えながら、時代を平安時代にすり替えて、当時の寛政の改革を風刺した。その結果、2年間の執筆禁止が言い渡されている。

また、石部琴好(いしべ きんこう)は『黒白水鏡(こくびゃくみずかがみ)』で、佐野政言による田沼意知の刃傷事件を風刺して、やはりお咎めを受けている。作者の琴好は手鎖の上、江戸を追放されてしまい、消息を絶つ。そして絵を描いた北尾政寅は過料、つまり、罰金を科せられている。

これまでのように自由に作品を描いていてはまずいかもしれない。そんなムードが漂い始めるなか、幕府はさらなる施策として「出版統制令」を打ち出している。

従来の出版規制を徹底した松平定信

書物や草双紙類の新規出版は禁止する――。寛政2(1790)年5月、幕府から書物問屋仲間にそんな命令が出された。

とはいえ、さすがに新規の出版物すべてを禁じるのは現実的ではないと考えたのだろう。「どうしても出版したい場合は町奉行所の指図を受けるように」ともあり、新たに世に出る本を何とかして、幕府の統制下に置こうとした。

そのほか、時事をすぐに1枚絵として出すことも禁止し、淫らなものや異説を唱える本は取り締まるなど厳しい姿勢を打ち出した。

そんな書物問屋の出版物に課せられた制約が、同年10月には地本問屋にまで拡大。「行事」という役目を定めて、風紀を乱す淫らな本が出版されないように、と命じている。11月には町触れとして出されることとなった。

この出版規制は、いかにも厳格な定信らしい施策として思われがちだが、定信からすれば「原点回帰」にすぎなかったのではないか。定信にとっての「原点」とは、祖父で8代将軍・徳川吉宗の治世のことだ。

もともと出版統制は4代将軍の家綱の治世のもと、明暦3(1657)年に京都で町触が出されたのが始まりとされている。徳川家をはじめとした名門の家や、有力寺社について書いた書物を、当事者に了承を得ずに出版することを禁じた。根も葉もない噂話や、風説が流布するのを、防ごうとしたようだ。

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