2つ目の危険性は、より壮大な危機だが、構造は1つ目の危険性と同一である。すなわち、「歴史」そのものがファンタジーかつ陰謀論となり、それが社会を壊しつつあるということである。
歴史とはナラティブであり、今や経済もマーケットもナラティブである、とという禁断の秘密を、人々は、正々堂々と語るようになり、こともあろうにむしろ「良い」現実として受け止めるようになってしまった。
人類は、自然という暗黒の恐ろしい畏怖の対象を、神話として、創世記として、人類とかかわりを持たせ、このファンタジーを現実と区別できないようにするために、古くは『古事記』や『日本書紀』のように、統治の正当化の物語として利用した。
民主主義も資本主義も、陰謀論と同じ構造にすぎない
一方で、呪術など自然を恐れたままであったが、それを克服するために、フィクションとしての神を作り上げ、自然の摂理の代わりに神を恐れるようになった。
しかし、それは自分たちで作ったものであるから、畏れも半減した。さらに、自然の摂理は解明できるものとして「科学革命」を起こし、自然を畏れることはない、無知から脱却しようとした。無知からの脱却は素晴らしいことだったが、自然を支配できると勘違いしたことは冒涜であり、ファンタジーを現実化しすぎた陰謀論にしてしまい、自壊を始めた。社会も居住環境も同じメカニズムで破壊され始めた。
神ももはや不要となり、何も恐れるものはなくなった。同時に、神では面白くないので、もっと現実感のある、自分たちで作った世の中の摂理を主張し始めた。自分たちで動かせるように、自己実現が可能な、民主主義、資本主義という原理で社会を支配した。
しかし、これらが絶対的な原理、絶対的な真理であるかどうかは、問わないままだった。なぜなら、それを検証することはできないから、ファンタジー的陰謀論と同様に、検証するのは野暮と考えた。歴史的検証はあり得たが、かなり面倒であり、かつ現実を全否定することになりかねず、みんなが不幸になるからという理由で、歴史をナラティブに変えてしまった。経済も市場も同様となった。
つまり、現代世界のすべての摂理だとわれわれが信じているものは、陰謀論と同じ構造にすぎないのであり、それが陰謀論であったことは永遠に誰も気づかないのである。こんな恐ろしい話は、陰謀論にすぎない、と片付けてしまうしかないのである(本編はここで終了です。この後は競馬好きの筆者が競馬論や週末のレースについて予想するコーナーです。あらかじめご了承ください)。
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