不登校の娘の「死にたい」と重なる母の自死の記憶 子どもの感情をすべて受け止めていた"親の課題"とは?

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透子さんの言葉を借りると、「このあたりが不登校の苦しみの前半戦」。子ども側に問題があると信じて疑わない親が、変わらない現実を直視し、自分自身の問題に気づくかどうかの分岐点です。ここで自分の課題から目を反らす人と取り組む人に分かれます。解決に向けて加速するのはもちろん後者です。

「当時はランさんのように不登校解決を支援する人や機関もほとんどなかったですからね。私はひたすら本を読みました。心理学、精神医学、学校教育、カウンセリングからスピリチュアルまで」

そしてある時、透子さんはそのなかの一文に目を留めます。

――それは子どもの問題ですか?あなたの問題ですか?あなたは子どもの自立を急いでいますが、先に取り組むべきはあなた自身の自立です――

それを見て、「ああ、私の課題はこれだ」と透子さんは確信します。

こういう時の答えは誰かから教えられるものではなく、何かの力を借りて自分の深いところから湧き上がってくるものです。透子さんはそれを掴みました。そして「この子を失ったら生きていけない」と思うほど、娘さんに依存していたことに気づきます。

課題の分離、子どもより先に親が変わる

そこからが「後半戦」です。

透子さんはいわゆる「課題の分離」に取り組み始めました。できごとが起きると、それは誰が引き受けなければならない課題なのかを冷静に見ていくようになったのです。

「学校に行けないこと自体は娘の課題。そして、そのことに悩むのは私の課題です」

これは娘さんのことを突き放すのではありません。学校に行けない要因を一緒に考え、大人としてできるサポートは用意します。でも、何を選択するのかは娘さんが決めること。透子さんは選択肢のメリットとデメリットは伝えますが、決定は娘さんに委ねました。

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