25歳で実家が火事、29歳で重度のうつ病→「どん底の男」が《1日1万個のコッペパン》を焼く「人気パン屋のオヤジ」になるまで。"壮絶な半生"に迫る

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2口目、3口目と食べ進むうちに、「僕がこのパンを東京で出せたらなあ」と思い浮かぶ。それはビジネス目線というより、「このパンだったら、たくさんの人に喜んでもらえるに違いない」という直感だった。

しかし、当時は広告プロモーションの仕事を始めたばかり。起業した会社を病気で退任するという痛い思いをしているだけに、資金的にも、精神的にもいきなり門外漢のパン屋を始める余裕はなかった。とはいえ、福田パンの衝撃は簡単に忘れられるものでもなく、吉田さんは「いつか」と胸に刻む。

福田パン3代目の意外な言葉

本業であちこちを飛び回るようになってからも、福田パンへの気持ちは冷めなかった。福田パンの社長に直談判する機会が訪れたとき、そのチャンスを逃さないよう、税理士に相談して資金を貯め始めた。何度か盛岡を訪ね、福田パンの店舗でそれまで体験したことのないオーダー方法や作りたての味を体験し、お客さんが絶えない繁盛ぶりを見て、「東京で!」という思いはより強まった。

「いつか」が実現したのは、2012年の初夏。その少し前、仕事で知り合った政策投資銀行の元参事官と丸の内で会食したとき、「福田パンを東京でやりたいんです」と相談した。その2週間後に再会した際、元参事官が「盛岡に精通している人と知り合ったから、行っておいで」という。その人は、岩手自動車販売という会社の社長で、後日、盛岡を訪ねると、福田パンの3代目社長、福田潔さん(当時は専務)を紹介してくれた。

吉田さんはそこで、3年間温めた思いのたけをぶつける。それを聞いた福田さんの返答は、意外なものだった。

「僕は、いわゆるビジネスはしません。うちのパンは日持ちしないから、流通もできない。でも、吉田さんが自分でパンを作るんだったら、教えてあげるよ」

盛岡で作った福田パンを東京に送ってもらい、それを売りたいと考えていた吉田さんは、予想外の展開に慌てふためいた。なにせ、パンを焼いた経験がないどころか、パンを焼こうと思ったことすらないのだ。福田さんから、創業以来のコッペパンに懸ける思いを聞いて、自分には畏れ多いとも感じた。それに、パン作りを教わるということは、パン屋を始めるということになる。本業を投げ出すつもりもなかったから、「両立するのは無理じゃないか」という懸念もよぎった。

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