毒殺は現実的ではないにせよ、家治の病状が悪化したときに、不穏な雰囲気が流れたことは確からしい。「家治の意次に対する機嫌が1日で急に悪くなった」と意次に告げる者がいたのだという。意次には身に覚えがないことだけに「嫌疑はそのうちに晴れるだろう」と考えていたが、「職を辞すべきだ」と執拗に迫る者がいたために、意次は病を理由に辞表を提出した……。
これは、老中の辞職に至るいきさつとして、意次自身が上奏文に書いた内容である。
最期に家治が意次に不快感を持ったのは本当か
家治がいきなり意次に悪感情を持ったのは、なぜだったのか。誰かが何かを吹き込んだのだろうか。そもそも、将軍の態度が変わったことを意次は人伝に聞いたに過ぎない。果たしてそんな事実が本当にあったのか。
意次は家治の病状が再び重篤になった22日から自身の病を理由に登城しなくなり、27日に依願免職となる。この間の8月25日に家治は死去。そのため、意次は病状を悪化させた医師を推薦したことで、家治の死後に責任をとらされたとも考えられている。
大和金峰山の開発や下総印旛沼干拓の工事と、大きなプロジェクトが立て続けに、災害によって中止になったのも、意次にとっては大きな痛手となった。もはや、息子の意知も亡くなってしまい、意次としても土俵際で踏ん張る気力が湧かなかったのかもしれない。
その後、意次は財産の没収、江戸屋敷の明け渡し、そして、蟄居と厳しい処分が課せられて、天明8(1788)年7月24日、意次は江戸で死去。家治の死から、約2年後のことだった。
【参考文献】
後藤一朗『田沼意次 その虚実』(清水書院)
藤田覚『田沼意次 御不審を蒙ること、身に覚えなし』(ミネルヴァ書房)
辻善之助『田沼時代』(岩波文庫)
松木寛『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』(講談社学術文庫)
鈴木俊幸『蔦屋重三郎』 (平凡社新書)
鈴木俊幸監修『蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』(平凡社)
倉本初夫『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』(れんが書房新社)
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