「財産の没収、江戸屋敷の明け渡し…」厳しい処分が課せられた田沼意次、将軍・徳川家治の死で疑われたワケ

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家治は、給仕の小納戸を手招きして呼び、ミスをこっそりと教えたというのだ。本来ならば、小納戸頭が謝罪しなければならない展開だが、そうならないようにした、その気遣いには驚くばかりだ。

人のミスを責めずにシステムを変更した

また、紅葉山の歴代将軍の霊廟に詣でるときにも、こんなことがあった。案内する溜間詰の者が、本来は4代将軍・徳川家綱の廟に連れていくべきところを、誤って3代将軍・家光の廟の唐門のほうに先導してしまったという。

これもまた「なぜ、確認しないのか」と不思議に思う人もいることだろうが、誰もが想像しないようなミスをするのが、粗忽者なのだ。このときに家治が言ったとされる言葉もまた慈悲に溢れていた。

「唐門の扉が開いていたので、先導の者が間違えたのも無理のないことである」

そうしてフォローしながら、その一方で「供奉の若年寄と側役の二人が、唐門のところへ並んで立っていることにせよ。それならば先導の者も気づくだろう」と対策を講じることも忘れなかった。人を責めるのではなくシステムを改善するという、リーダーとして理想的なふるまいをしたと伝えられている。

家治には「自分には周囲の支えが不可欠である」という謙虚な思いがあったことも、周囲への気遣いにつながったのだろう。

宝暦10(1760)年、父で9代将軍・徳川家重が隠居を決めて、24歳の家治に将軍の座が引き継がれた。家治はまず老中の松平武元を召している。祖父である8代将軍・徳川吉宗に見出されて、父の家重を支え続けたベテラン老中を頼りにしたようだ。「私はまだ若く、国の政治のことに習熟していない」と率直に不安な心情を吐露すると、さらに次のように続けたという。  

「今日からは、何事によらず思ったことはすべて言上し、私に過ちがあれば、諫言してくれ。私は、素直にその言葉を聞こう」

また、父の家重が死に際に「意次を重用せよ」と言い残したことから、家治は 松平武元と田沼意次に信頼を置いて、政務を執り行うことになる。

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