「財産の没収、江戸屋敷の明け渡し…」厳しい処分が課せられた田沼意次、将軍・徳川家治の死で疑われたワケ

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優しくて謙虚だっただけではなく、苦言を呈することもあった。武家屋敷や町屋が焼失したときに、興味本位で見物に行こうとした側近たちには「火災は民の憂いの大きなもの。民の憂いは私の憂いである」と民に寄り添いながら、「決して興のあることだと思ってはならぬ」と見物に行くことを許さず、その後は自ら防火の指揮をとったという。

いずれも『徳川実紀』からの逸話であり、どこまで本当にあったことなのかは定かではない。だが、少なくとも後世で「優しい将軍だった」と語られるだけの人徳が家治には、確かにあったようだ。

家治の病床で医師交代のバタバタが繰り広げられた

そんな家治が病に伏したのは、天明6(1786)年8月のことだ。

むくみの症状が現れて、8月15日には「月次御礼」(つきなみおんれい)も欠席。月次御礼とは、参勤交代で江戸にいる諸大名が原則として毎月1日、15日、28日に江戸城に登城するという儀式のこと。家治は将軍に就任して以来、26年間、一度も欠席しなかっただけに、よほど体調が悪化していたのだろう。

将軍の病状はかなり深刻なのではないか――。そんな噂が流れるなかで、どの医師に診せるべきかでゴタゴタしたらしい。

当初は家治の信頼が厚かった奥医師の河野仙寿院が薬を調合していたものの、病状が快方に向かわないために、8月15日に奥医師の大八木伝庵が診察を担当することになり、その翌日には、医師の日向陶庵と若林敬順が新たに治療に加わっている。

だが、この2人が診察して調合した薬が合わなかったのか、症状はさらに悪化してしまう。両医師は20日に退けられて、再び大八木伝庵が治療にあたり、症状はしばらく安定したようだが、8月25日に家治は死去したとされている。

この家治の病状を悪化させた2人の医師について、推薦したのが意次だったために「意次が毒を盛らせたのではないか」という説がのちに唱えられることになる。

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