今こそ学ぶべき西郷隆盛の合従連衡論--『日本近代史』を書いた坂野潤治氏(歴史学者、東京大学名誉教授)に聞く
わずか数十年の間に「近代化」を実現しながら、やがて「崩壊」へと突き進む原因はどこにあったのか。近代日本の80年を460ページの新書でダイナミックにとらえ直すと、その行き着いた先の状況は「現代日本」に重なるという。
──西郷隆盛にほれ込んでいませんか。新しいイメージでの書き出しです。
1857年から1937年まで、近代日本の80年を描くとなると、新書とはいえさすがに厚くなった。今、多くの人が下り坂に関心を持っているが、私が好きなのは上り坂、つまり興隆期。この本でいえば、特に第1章の「改革」の時代(1857~63)、第2章の「革命」の時代(63~71)、加えて第3章の「建設」の時代(71~80)がいい。
西郷隆盛といえば、征韓論、アジア侵略、加えて西南戦争によって、とかくのイメージが作られているが、実際はフランスの議会制にも関心を持った相当なリベラル。かなりバタ臭いところさえある。視野の広さは、しめて5年間も流刑に処せられながらも、東奔西走した「合従連衡論」の実践に表れている。
──合従連衡論とは。
開明的な藩主同士と、志ある各藩の有志同士を二重に横断的に結合させるというもの。これは西郷の一貫した主張だ。幕府にも人材はいたが、自己革新は起こらない。同時に、大名単独では何もできないが、藩主なしでは家臣は動きが取れない。そこで各藩の有能な家臣を見つけ出し、藩主層と家臣層を二重に合従連衡させる。
この構想を、それも62年にははっきり持っていた。島津斉彬の名代で京都や江戸へ面談に出向き、佐久間象山をはじめ当代きっての開明派のインテリ人脈を受け継ぐ。生麦事件を受けての島津久光の単独出兵に異議を唱えて、復帰2カ月でまた流刑に処せられるが、構想は洗練されていく。64年に島流しを赦免されてから、培った人脈が動きだす。