「正論だとわかっているのに、なぜか反発してしまう」身近な人の言葉ほど届かない訳

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

親から言われると反発したくなるのに、たまにしか会わない親戚に言われると、なぜかすんなり受け入れてしまうことがある。そんな経験は、ないだろうか?

私はそうだった。当時付き合っていた彼女(現在の奥さん)にプロポーズする際、母から何度も「結婚しなさい」「そろそろ孫の顔が見たい」と言われていたが聞かなかった。父が病気になり、手術が決まったあと「お父さんを安心させて」と言われたときでさえ、首を縦に振らなかった。

しかし、10年ぶりぐらいに顔を合わせた伯父から、「30歳も過ぎたんだから結婚すればいい。彼女もその気なんだろ? 何を迷ってるんだ」と言われると、不思議なくらいあっさり従ってしまった。思い返すと、母の言葉には「期待」や「干渉」といった母の主観的な視点が混ざっていた。言われるたびに自分の自由を奪われるような気がしていた。

でも伯父は、日ごろまるで接点がない。だから、伯父の言葉が「客観的な意見」として響いたのかもしれない。つまり、「関係性の近さ」は時に「客観性」を奪ってしまうのだ。 だからこそ、少し距離のある人の言葉には、自分を見つめ直す力があるのだと思う。

距離が近いと「慣れ」を生む

これは家庭に限った話ではない。職場でも、まったく同じことが起こる。たとえば、直属の上司に「ちゃんとF課長と連携して動け」と言われても、つい反発したくなるのに、他部署の課長から、

「F課長、けっこう困ってたぞ。自分のやり方もあるだろうけど、F課長の立場も少し考えてあげたら?」

とやんわり言われた瞬間、なぜか素直に反省してしまう。「そんなつもりはなかったです。もちろんF課長には感謝してますし、ちゃんと協力します」と、思わず頭を下げてしまうこともある。

次ページ近い関係ゆえのデメリット
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事