蔦重と「喜多川歌麿」タッグ組んで挑む"新境地" 浮世絵美人画には《超強力なライバル》… そこで蔦重が目をつけたもの
『絵本詞の花』(天明7年=1787年)、『麦生子』(同年)、『潮干のつと』(天明7年か)、『画本虫撰』(天明8年=1788年)というような感じです。
また、寛政元年(1789)、寛政2年(1790)にも、狂歌絵本に絵を描いています(『狂月坊』や『銀世界』など)。
このように、天明末年から寛政初年にかけて、歌麿は多くの狂歌絵本を描いているのですが、その大多数が蔦屋からの刊行です。この事実は、歌麿が描いた狂歌絵本が好評を得ていたことを示しているでしょう(売れなければ、毎年のように刊行ということはないでしょう)。
蔦重に多くの絵を描かせてもらった歌麿
同時に、蔦屋重三郎と歌麿の間に、強固な信頼関係が形成されていたこともわかります。1つの狂歌絵本に1画だけ絵を描くというわけではありません。まれにそういうこともありますが、ほとんど「24図」「15図」「8図」というように、歌麿は多くの絵を描かせてもらっているのです。
歌麿が絵を寄せた『絵本江戸爵』、『絵本詞の花』、『麦生子』は「墨摺本」(墨一色で刷られた木版画)でした。
歌麿が絵を描いた『絵本詞の花』を見ると、上のほうに狂歌が小さく記され、絵が大部分を占めています。
一方、北尾政演(山東京伝)が絵を描いた『吾妻曲狂歌文庫』、『古今狂歌袋』(天明7年)は、色鮮やかな多色刷。『吾妻曲狂歌文庫』を見ると、中央にドンと狂歌が記され、その下に、それなりに大きく、狂歌師たちの肖像が描かれています。
『吾妻曲狂歌文庫』は、狂歌も絵もそれぞれ「自己主張」していますが、『絵本詞の花』は絵のほうが目立っているのです。
しかし、墨摺本ということもあり、地味と言えば地味。多色刷の『吾妻曲狂歌文庫』のほうが豪華ではあります。歌麿は、自分も多色刷の狂歌本に絵を寄せてみたいと感じたことでしょう。
そのチャンスはすぐに到来します。天明7年に刊行されたと思われる狂歌絵本『潮干のつと』。この蔦屋から刊行された絵本は多色刷ですが、そこに絵を描いたのが、歌麿だったのです。
天明7年から、多色刷の狂歌絵本の制作も、歌麿が担うようになるのです。天明8年、天明9年と、北尾政演は、多くの黄表紙を刊行しています。よって、黄表紙の執筆に忙しく、狂歌絵本に絵を寄せる暇がなくなった。そこで代わりに、歌麿が多色刷の狂歌絵本の制作も、蔦屋から依頼されるようになったのではないでしょうか。
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