〈公文書管理〉国立ハンセン病資料館は所有を否定。消えた「癩(らい)患者徴兵検査書類」の行方

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国立ハンセン病資料館(東京・東村山市)。公文書管理のあり方が問われている(時事通信)
ハンセン病患者と戦争の関係の手がかりとなる重要な史料の所在がわからなくなっている。国立ハンセン病資料館とのやり取りを通じ、わが国の公文書管理のあり方を問う。

「とにかく史料の散逸を防ぐことが最優先されるべきだと考えたのです。その一心で、国立化されたハンセン病資料館に移管したのに、その史料が存在しないなどということがあるのでしょうか。当時の関係者であれば、誰もが知っているはずなんですが……」

かつて、ハンセン病の史料の整理に当たった関係者が、そうつぶやいた。

国立療養所多磨全生園(東京・東村山市)の敷地内にある国立ハンセン病資料館。そこに保管されているはずの戦前・戦中のハンセン病患者らの処遇を示唆する多数の史料が所在不明となっている。

“消えた”のは「癩患者徴兵検査書類」「収容患者兵事関係書綴」などの史料。いずれも、これまで表立っては知られていなかったハンセン病の療養所内がどのように戦時体制と接点をもっていたのかを検証するうえで重要な1次史料と思しきものばかりである。

ハンセン病患者に対するかつての隔離政策を問い、国を相手取った「ハンセン病違憲国家賠償訴訟」の和解が成立したのは2001年。それから24年を迎える今、史料の管理をめぐって新たな問題が持ち上がっている。

国立ハンセン病資料館設立までの経緯

1931年に、らい予防法の成立(1996年に廃止)とともに全国各地に設けられた療養所への患者の収容方針のもと、警察や自治体が一体となっての「無らい県運動」の展開などと相まって、老若男女や年齢を問わない療養施設への隔離が励行された。

かつての国の政策が患者に対する無用な差別や権利侵害を助長・形成したとして、被害救済を求め、元患者らが提起したのが「ハンセン病違憲国賠訴訟」である。同訴訟は2001年、当時の小泉純一郎首相の判断で国が控訴断念を決め、訴訟そのものは和解に至った。その和解を契機として、東京・東村山の多磨全生園の一画に、現在の国立ハンセン病資料館が新たに整備されることとなった。

新設資料館は厚労省の所管となり、現在に至っている。同時に、管理運営は外部機関に委託されることとなった。当初は日本科学技術振興財団、次いで日本財団、そして現在は戦後長らくハンセン病患者の救済支援を行ってきた笹川保健財団が受託している。

所掌部局は厚労省の難病対策課だが、管理運営は笹川保健財団と、同財団が採用・雇用する職員、学芸員らに任されている。

この管理運営体制のもとで、“奇妙な状況”が発覚した。

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