平賀源内はエレキテルを復元したことでよく知られているが、科学者としてだけではなく、実に幅広い分野で活躍していた。
日本初の物産展を開催したのも源内だし、金山・鉄山の開発や、鉄の精錬に携わることもあれば、温度計や万歩計づくりに力を入れたこともある。陶器を焼かせれば「源内焼」を創案し、絵を描かせれば「西洋婦人図」と題する油絵を完成させた。何をやらせても、意表をつくことができる男、それが平賀源内だった。
常に大衆に注目された才能あふれる男
源内といえば、「土用の丑の日」のキャッチコピーを考え出した、という逸話を聞いたことがある人もいるだろう。その結果、暑中と寒中の土用丑の日に、鰻を食べる慣習が江戸時代に一般に広まった……とされているが、源内がそんなキャッチコピーを考えたという裏づけはなく、実際にあったことかどうかは怪しい。
源内が確かに行ったコピーライティングの仕事としては、明和6(1769)年に、えびすや兵助から依頼されて、歯磨き粉「嗽石香」(そうせきこう)を売り出すための宣伝文を考案。ストレートに商品の良いところをPRするのではなく、こんな斜に構えた宣伝文を源内はひねり出した。
「とりあえず千葉の砂に香りをつけました。効果はわからないが、まあ歯が磨ければ良いでしょう」
これが庶民に大ウケして、歯磨き粉は飛ぶように売れたという。
コピーライターとしての才能があった源内は、小説にも手を出している。『根南志具佐』(ねなしぐさ)と『風流志道軒伝』(ふうりゅうしどうけんでん)という2つの小説を同時並行で書き上げてしまうと、たちまちベストセラーになった。
源内が初めての発明をしたのは、若干12歳のときだ。
それはカラクリ「お神酒天神」で、人形の前にお酒を置くと、軸の裏で糸が引っぱられ、天神様の顔の裏側に赤い紙が降りてくるというもの。まるで天神様がお酒で顔を赤らめたように見えるのだから、大したものだ。
構造こそ単純だったが、源内の遊び心と独創力がよくわかる発明品である。それ以来、源内の奇抜な発想と実現力は、常に世間を騒がし続けた。
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