「慶應→上場企業→落語家へ転身」した"ヘンな人"が、「天才落語家」に1万回怒られて学んだこと 「立川談志」の弟子になるとはこういうことだ
「俺は小言でモノを言う」とは、談志の新弟子たちに対する口癖だったのだそうだ。このフレーズのあとに、「俺は教育者でも経営者でもないんだ」と続いたのだとか。
言い換えれば、師匠の発した小言や罵詈雑言という採掘物を精製し、小言や負の感情を取り除くための潤滑油こそが「謝罪」と言えるのです。
つまり「修行」と「謝罪」はセットでもあったのです。(33ページより)
鍛えられる「謝罪」の作法
そうした価値観のなかで生きてきた結果、いつしか「どうすれば師匠をしくじらないですごせるか」が前座としての著者の基本姿勢になった。まだ怒られることに耐性もなかった前座初期のころは、「謝罪」もぎこちなかったかもしれない。しかしそんなとき、さまざまな落語の場面に出てくるセリフが救いとなったのだそうだ。
ここでいう「とりあえず謝っちゃえ」はいささか機械的な作法のようにも聞こえるが、著者はここで相撲の「股割り」を想起するのだという。
「とりあえず謝る」という形だけの謝罪に慣れてくると、やがてそれが身体に馴染んでくるもの。
入門当座の新弟子は基本的に「勘違い」の塊でもあり、それは「本人を守る防御壁」でもあるのだろう。しかし、「より大きな芸を身につけるにあたっては障壁」でもあるはずだ。したがって、“そのあたりをぶっ壊す”必要があると著者は述べている。
つまり、双方の間にそびえる目に見えないブロックを、内側から解除するパスワードこそが「謝罪」だったのだ。
小言や罵詈雑言は、グサリと刺さる「個体」のように思われがちですが、それは頭の上を通り抜けてゆく「流体」だと思えばいいよという、先人からのイメージトレーニングにも思えてくるから不思議です。(36〜37ページより)
たしかに「流体だから瞬時に消え去ってゆくもの」だとわきまえれば、見えない小言が可視化される。また、「嫌味な小言をいわれたら、受け流せばいい」「頭の上を通り抜けたら消滅するんだ」という感覚を養うこともできそうだ。
そしてなにより「謝罪」は、不快な小言の解毒剤にもなりうるということである。
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