「慶應→上場企業→落語家へ転身」した"ヘンな人"が、「天才落語家」に1万回怒られて学んだこと 「立川談志」の弟子になるとはこういうことだ
サラリーマン経験のある人からすれば、そんな“対処法”が著者のなかに根づいていたことも理解できるが、師匠からすればそれは正しくなかったのだ。
落語界特有の「しくじり」というメンタリティ
著者はこのとき、「感情の主導権は、師匠およびその現場の年長者にある」ということを悟ったのだという。こうした感情の主導権を、落語会では「しくじり」と呼ぶということも。「しくじり」という感覚は、落語家の世界特有のメンタリティだというのである。
たとえば落語会なら、前座はまず出演者が「機嫌よく」動けるようにテキパキとした言動をする。手際よく出演者に着物を着せたり、畳んだりする。出囃子を出したり、それに合わせて太鼓を叩いたり、落語家が高座に上がるたびに座布団を裏返したり、お茶を出したりと役割は多いのだ。
お茶を出すタイミングや、打ち上げの仕切りなども含め、とにかく働くのが前提。それらの動きはすべて、「出演者を機嫌よくさせる」ことが前提になっているわけである。
「快・不快」や「機嫌」の主導権は師匠をはじめそれぞれの現場での先輩である兄弟子などが握っているのですから、「〇〇師匠をしくじった」というのは、しくじらせた側である前座や目下の人間がすべての責任を負う……というのが落語会のシステムなのです。
こういう作法が積み重なって、長年にわたって構築された世界こそが落語会だったのです。(29ページより)
つまり談志だけが厳しいわけではなく、末端の新弟子たちの精神的負担によって落語会全体が成立しているとも解釈できるのだ。
そして、そういった背景をさらに「俺の流儀」とばかりに特化して談志ひとりに傾注させるべく、弟子たちを純粋に培養するシステムこそが立川流だったということのようである。
たとえば〇〇師匠が、不合理で理不尽な感じで別の一門の下の子たちを怒鳴ったとしよう(あくまで仮定であり、普通はそんなことはないという)。そんな場面でも、下の子たちはひたすら〇〇師匠の機嫌がなおるまで謝り続けるしかないというのだ。
そのため下の子たちは、自分の不手際が師匠に波及しないように、とにかく我慢して謝罪するしかない。だからこそ談志は入門時に、「修行とは不合理や矛盾に耐えるのが仕事だ」とまで定義していたのではないか。著者はそう振り返っている。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら