「酒の飲めない奴は三菱の重役になれない」の真相 三菱財閥ではどんな採用が行われていたのか

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その姿勢は30年経っても変わらなかった。1935年に東京大学経済学部を卒業し、三菱鉱業に入社。のちに新日本製鉄社長となった斎藤英四郎(1911~2002)は「鉱業の口頭試問で、私はある役員から『酒はどのくらい飲むか』と聞かれた」(『私の履歴書 経済人23』)と述懐している。こうした証言は他にも散見する。

大酒飲みと言われる人物が揃っていた

1917年に東京大学独法科から三菱合資に就職した秦豊吉(1892~1956)は、その著書の中でこう書いている。

財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図 (角川新書)
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査業部の大幹部江口(定条)、妻木(栗造)、三宅川(百太郎)は、さながらに梁山伯に集る水滸伝の人物といつては大げさであろうか。いずれも支那豪傑の寄合のようで、どうしてこんなに三菱は大酒飲みといわれる人物が揃つているのだろう。洒が飲めなければ、出世は出来んのか、と若く弱気の私どもは、疑わざるを得なかつた事も事実である。

東洋課というのは、中国に対する投資事業が中心であり、組織立つた三菱の大組織の中で、最も異色ある一課であつた。大体三菱の幹部は、三井に比べて酒豪揃いという定評はあつたらしい」(『三菱物語』)。

むかしは、酒の飲めないやつは三菱では重役になれない、と言われたもんだ」(『財界』1966年4月15日号の座談会における荘清彦の発言)というストレートな意見もある。

住友合資常務理事の川田順も「昔、三菱では社長へ年賀の社員に講談馬場大盃よろしくの大金杯が出された。『恐れながらそれがし、御遠慮は仕りませぬ』と一気に飲み乾せばお覚え芽出度く辟易しようものなら『そんなことで仕事が出来るか』と呶鳴りつけられたさうだ。これは豪傑弥太郎の遺風にちがひない」(『続住友回想記』)と語っている(馬場の大盃とは、大酒吞みの大名の相手をした奉公人が、それを機に出世した講談の演目)。

こうした逸話を紹介すると三菱は大酒吞みばかりを採用しているように思われがちだが、その一方で、1940年に東京高商を卒業、三井物産に入社した八尋俊邦によれば、「本当かどうかわからないが、学卒者の採用基準は三菱が成績順だったのに比べ、物産は意識して優等生をとらなかったという」(『私の履歴書 経済人27』)噂もあった。

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