「酒の飲めない奴は三菱の重役になれない」の真相 三菱財閥ではどんな採用が行われていたのか

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宇佐美は明言していないものの、加藤が常務の権限として採用を一存で決めたことを示唆している。ちなみに、宇佐美の後任の三菱銀行頭取・田実渉(1902~82。26年東京大学経済学部卒)も加藤が採用を決めている(『回想 田実渉』)。

こうしたことから、三菱財閥は縁故入社が多いという風評が学生の間でも立ったらしい。

1928年東京大学法学部卒で三菱鉱業セメント社長・日経連会長を務めた大槻文平(1903~92)は、「三菱鉱業は当時、指折りの大会社で、東大法学部から5人採用するというので、友人と一緒にひやかしのつもりで試験を受けてみた。(中略)学生間では三菱は紹介がなければ採らないという評判があった。しかし、会社内に1人の知人もないのに私は採用になった」(『私の履歴書 経済人16』)と語っている。

住友の採用面接でよく聞かれた「質問」

三菱財閥では分割会社設立後も本社一括採用を維持していたが、トップが自社の採用を一存で決めることができ、他社の採用も三谷-田部の事例のように、有利に進めることができた。本社一括採用といっても、実際には各社で希望の人材を採用することが可能だったのだ。このことは各社固有の学閥を形成することを可能とした。

住友でも一括採用しており、採用面談ではよく使われる質問があった。すなわち、住友の利益と国家の利益が相反した際にどちらを取るか――である(住友の利益をあげた者は不採用になったという)。

これに対し、三菱財閥の経営陣が新入社員に寄せる関心はただ1つ。奥村政雄が岩崎「久弥社長に最初にお会いしたのは、私が三菱入社決定直前(1906年)だった。そのとき私に酒はどのくらい飲むかと聞かれた」(『私の履歴書 経済人6』)。

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