「酒の飲めない奴は三菱の重役になれない」の真相 三菱財閥ではどんな採用が行われていたのか

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第一次試験には、商大からだけでも150人くらい来ていた。それほど希望者が多かった。それを30人に絞り、あとの120人は第一次で落とされてしまった。

第二次試験は、三菱商事だけでなく、三菱各社のトップ(当時は社長といわずに会長といっていた)が、みんなで面接をする。選考委員の顔ぶれは、三菱造船、いまの重工(会長)の浜田彪、銀行(常務)の加藤武男、三菱地所(常務)の赤星陸治 、三菱鉱業の三谷(会長)さん、三菱商事の高橋錬逸筆頭常務、そのほか三菱信託など各社のお歴々である。

私が試験場に入っていくと、三谷さんが非常にうまくやってくれて、『田部君、どうかね』と、非常に親しく話しかけて、三谷さんと相当親しいぞという印象を与えるようにしてくれた。そのため、私自身かたくならずに済んだし、ほかの人たちも、別にむずかしい質問はしなかった」(『幾山河』。3つめのカッコ書き以外は引用者註)。

採用面接は各社の幹部が出席して決定

ポイントは以下の3つである。①本社一括採用といっても、学生は希望の企業を述べることができた(それが適うかどうかは別問題だが)。②分系会社のトップは当該企業の採用であれば、一存で決めることができた。③採用面接は各社の幹部が出席して決めていたことである。

当該企業での採用については、三菱銀行頭取・日本銀行総裁を務めた宇佐美洵(1901~83)の証言がある。宇佐美は東京府知事・宇佐美勝夫の嫡男として生まれ、1924年に慶応義塾大学経済学部を卒業、三菱銀行に入った。

宇佐美の母方の伯父は三井銀行筆頭常務で日本銀行総裁・大蔵大臣を務めた池田成彬、叔母の夫は三菱銀行頭取の加藤武男であり、もともと金融界に近しい環境にいた。

宇佐美はまず池田に相談に行き、銀行への就職を勧められ、「池田の伯父は当時、三井銀行の常務をしていたが、『三井よりは三菱の方がいいだろう』と言った。(中略)

加藤の叔父は、三菱銀行のやはり常務であった。池田のところを辞したあと加藤の方に行っていきさつを話すと、即座にいいだろうということになった」(『私の履歴書 経済人14』)と述懐している。

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