原宿駅の西側に広がる代々木公園は、戦前は練兵場だったが、敗戦により連合国軍の宿舎であるワシントンハイツとなった。そのアメリカ人を中心とする住民が表参道付近を行き交うようになり、原宿の街はアメリカナイズされていった。
その後1964年に開催された東京オリンピックでは、接収が解除されたワシントンハイツ一帯が、代々木体育館や選手村などの五輪会場となった。大会後、さらにその跡地はNHKや代々木公園になり、こうした経緯を経て、原宿の街には外国人、NHK関係の文化人や芸能人などが出没する土壌ができた。
その1970年前後は、戦後生まれの団塊の世代が成人を迎え、若者世代のファッションが急速に変革しつつあった時代。それまで最新モードは主に銀座から発信されていたが、若者たちは新宿に次ぐ新たなカルチャーやファッションの街を欲していた。
また、ファッションの作り手である若手デザイナーたちも、自分たちがアトリエや店を構える場所として、明治神宮や表参道などの緑が多く環境のよい原宿を選んだ。それには、このあたりの家賃が、他の都心に比べて安いという理由もあった。
そうしてファッションストリートとなっていった原宿だが、表参道に比べてはるかに細い通りである竹下通り周辺は、1970年代はじめはまだ住宅街だった。
1970年代半ばから徐々に発展
しかし1974年に、竹下通りを抜けた明治通り沿いにファッションビル「パレフランセ」がオープンしたことで人流に変化が起きる。パレフランスはカルティエ、ゲランなどのヨーロッパの高級ブランドの店が入居する当時の原宿で最も注目を集めた場所で、それを機に、竹下通りの人通りは徐々に増え、通り沿いにテナントビルが建つようになり、1977年には原宿竹下通り商店会が発足。
いったん通りが商店街化すると、原宿駅竹下口の真ん前という抜群の立地も功を奏し、竹下通りはこの後表参道と並ぶ原宿のメインストリートに化けていく。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら