貧しいながらも、貯めたお金で母にクリスマス・プレゼントとして襟飾りを買ったときのことだ。後でもっといいものが見つかってしまったが、「取り替えたい」と頼んでも店には聞き入れられなかった。その悔しい経験が後に返品制度の導入というアイデアを生むことになるから、人生はわからない。
ワナメーカーは23歳のときに、妻の兄とともに「オークホール洋服店」を開業。経営者としての人生を歩み、百貨店王へとのし上がることになる。
スコットランドに生まれた実業家アンドリュー・カーネギーもまた、貧しい家庭環境から立身出世を果たした。一家で移民としてアメリカに渡るが、父が事業に失敗。12歳にしてペンシルベニア州アレゲニーにある木綿工場で働いている。
苦境に考え抜いて飛躍するのが名経営者だ
カーネギーはペンシルベニア鉄道で勤務しながら、製鉄事業への投資で才覚を発揮。28歳の頃には年収の20倍近くの金額を投資で稼ぎ、実業界でその名を広く知られるようになる。
鉄橋を作る会社や製鉄工場を創設し、イギリスで開発されたばかりの「ベッセマー製鋼法」を導入。さらにピッツバーグに最新式の製鉄工場を完成させ、1899年にはアメリカの鉄鋼生産の約25%を支配したというから、すさまじい。
好機を見逃すことなく、富を築いた鉄鋼王カーネギーの言葉がこれだ。
「よい機会に恵まれぬ者はいない。ただそれをとらえられなかっただけなのだ」
百貨店王のワナメーカーとほぼ同じことを言っている。34歳で銀行を辞めて、鉄道事業へと生涯を捧げた、阪急阪神東宝グループの創業者・小林一三も、チャンスが到来したらすぐに行動を起こす大切さを述べている。
「新事業の準備が十分にととのったら即突進すべし。一、二、三ではいけない。二は迷いである、自信のなさである」
一三は、会社員時代の退職金をつぎ込んで、さらに知人・親類からの援助を受けて、電車が走っていない池田・宝塚・有馬地区へと鉄道を敷いた。
大きな課題は「田舎の郊外にどうやって客を呼ぶか」ということ。考え抜いた末に、沿線の宅地開発を行ったうえで、日本初となる住宅ローン制度を考案する。さらに世界初のターミナルデパート「阪急百貨店」を創業するなど、私鉄による多角経営のパイオニアとして、歴史に名を刻むことになった。
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