「花山法皇の娘」のあまりに"壮絶すぎる最期" 恋愛に奔放だった法皇は母子と関係を持つが…
中務と呼ばれるこの女房は、花山法皇とは乳母子に当たる関係でした(花山法皇の乳母は、平祐之の妻。乳母が産んだ子が中務)。花山法皇と中務は、以前から顔見知りだった可能性が高いと言えましょう。
九の御方に飽きた花山法皇は、御方を異母弟・為尊親王の愛人とするように差配したとのこと。
中務という最愛の人に巡り会ったかと思われましたが、ここで花山法皇は「暴走」します。新たな女性と関係を持つに至ったのです。
母子それぞれと関係を持った花山法皇
その女性というのが、何と、中務の娘でした。中務は未婚ではなく、平祐忠という中級貴族の妻だったこともありました(花山法皇の愛人となったときに、夫婦関係があったか否かは不明です)。
祐忠と中務の間には子が産まれます。それが、平子という娘でした。平子まで法皇の寵愛を受けることになったのです。しかも、法皇は、中務・平子という母娘を妊娠させてしまいます。2人は男子を産むことになります。
中務が産んだのは清仁親王、平子が産んだのは昭登親王でした。2人の皇子は、冷泉上皇(花山法皇の父)の子として養育されることになります。
出家の身である法皇に子どもができたことに対して、世間体を気にして、そのような対処をしたのでしょうか。
その後花山法皇と中務の間には、またしても子どもができました。その子どもたちは、どちらも女の子でした。
下の女の子(妹)は、産まれてすぐに兵部という女房のもとに里子に出されてしまいました。この女の子は、皇女としての人生ではなく、女房の娘としての人生を歩まされることになったのです。そして、その娘もまた養母と同じように、女房となり、藤原彰子に仕えることになったのでした。
しかし、この哀れな「皇女」には、悲惨な最期が待ち受けていました。1024年12月6日の夜。娘は盗賊により殺され、その遺体は路上に放置されたのです。しかも、遺体は路上を彷徨う野良犬により食いちぎられるという無惨な状態でした。
変わり果てた姿となった娘。娘の身元を割り出すことができたのは、着ていた衣服からでしょう。「皇女」は盗賊によって殺されたとする一方で、誰かが路上に誘い出して殺したのだとの噂も流れていました(『小右記』)。平安時代、盗賊は上流階級の人々の邸宅に押し入ることがよくあったのです。
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