日本人が知らない「武士の介護休暇」意外な手厚さ 江戸時代にも90歳を超える高齢者が一定数いた
八郎はその後少しずつ回復しますが、同年の秋頃からまた体調が悪くなったようです。その後八郎は藩から暇(いとま)をもらい、国元で療養生活を送りましたが、年が明けて1867年(慶応3年)の正月4日頃から難治性の吃逆(きつぎゃく〔しゃっくり〕)がひどくなり、薬を投与しても収まらなくなります。7日には医師より、
「年来中風御病之上、御老体旧臘より咽喉御悩、彼是ニて御疲労強所へ之吃逆ニて、種々之薬剤奏功無之上は、何分此度ハ心許なき」
(年来の中風の病の上、御老体は昨年12月から咽喉の悩みもありました。かれこれの病により疲労が強くなっているところにしゃっくりがひどくなり、各種の薬の効果もないので、なにぶんにも今回ばかりは〔命が持つか〕気がかりです)
と宣告されます。終末期に難治性のしゃっくりが見られることは現代でも多く、八郎に死期が近づいている兆候ともいえます。金沢家の跡継ぎである久三郎は藩命で江戸表に滞在中であり、すぐに国元から飛脚で手紙が送られています。
介護休暇を願い出た武士
医師から打つ手なしといわれた八郎に対し、久三郎が江戸にいたため、重教は自ら看取りケアを行おうと決意します。宣告を受けた翌日の8日の日記には、
「御容体弥不宜ニ付、自分今日看病引相願候処、即願済之事」
(〔実父の〕ご容体が良くないので、私は本日藩に看病引のお願いをしたところ、すぐに承諾となった)
とあります。父の介護をしたいので「看病引」、つまり介護のための休みが欲しいと願い出て、認められたわけです。翌9日には「後嗣えの御遺訓并自分・弥兵衛へ同断」とあり、医師から命が危ういといわれた八郎は、その2日後には息子の重教、弥兵衛に対する遺訓を作っています。この辺りの潔さは武士らしいともいえるかもしれません。