それでは、そうした政治への否定的な態度の人が残らず政治的に無関心であるかと言えば、決してそんなことはありません。諦めの境地に至る人も、何かきっかけが与えられると、割と簡単に政治的にアクティブになる場合もあります。
例えば、税金や物価など銭金の話になると政治への感度は上がり、支持率などに即反映されたりもします。ある特定問題に強い利益関心をもっている人々は、もちろんそれに応じた投票行動を取りますし、他者への呼びかけなどにも熱心です。
「沈黙・棄権・白票」=「現状に不満なし」
気になるのは、投票や発言、広く言えば政治的意思表明をする気持ちはあるのに、不満や怒りのあまり「あえて」行動することを止めて、「私はもう抜けます。この棄権や白票は、私の政治への強い抗議の意思表明です!」と前のめりに後退する人たちの思い詰めた行動のもたらす結末です。
抗議の意思を示しているのだからよいのではないのか? 己の信念に依拠した天晴れな行動だと、評価したくなる気もします。あえて棄権し、意思をもって白票を投じたのですねと。それなりのお考えがあってのことなのですねと。
しかし政治という人間の営みにおいては、思い詰めた気持ちや感情とは裏腹に、冷徹かつ当たり前の帰結が待っているのです。それは政治的意思の中に含まれる重要な要素である「決める、選択する」というものが、ゲームのルールの中でどう判断されるのかということです。
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